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かぎりなく透明に近い心。

私は“普通だ“

そう思っている人がほとんどなんだと思う。

東京駅に向かう、とある地下鉄の駅構内に、一般的に“ホームレス“と呼ばれるであろう女性がうずくまっていた。
東京、特に新宿などの中心地区ではそこにビルが立っているのと同じくらい見慣れていて当たり前の光景なのかもしれないけど、僕が住んでいる地方の小さな村にもし同じ光景があったのなら、隠すか、隠れるかの二択になる。

なぜなら、それが“普通じゃない“からだ。

社会の中で少数派とされる人たちをマイノリティなんて呼ぶけれど、マイノリティの反対側には当たり前にマジョリティがあって。というよりもむしろ、何事に関してもある事象、事物において必ず相対するものがあるからその互いが存在している。

つまり、“私って普通“というのは、“普通じゃない“があるから存在するし、多くの“普通“が存在するからこそ、“普通じゃないよね“っていうマイノリティが存在する。

何年か前、世間が“普通じゃない“と糾弾してニュースにもなったおじさんに会いに行った。
家のお掃除を一緒にするために、何時間もの間おじさんと会話をしたんだけど、「おじさんのほうがまともじゃん」ていう多くの考え方に僕は出会った。そう。普通だと思っていた僕は、おじさんからしたら普通じゃないってことに少し気づいた瞬間だった。

おじさんを普通じゃなくさせているのは、“私って普通だよね“って思っている裏側の思考なんだったんだねって。

駅構内にうずくまっていた女性は、駅を“普通に、普通の服を着て、普通に時間を過ごし、普通に歩いている人“がいるからこそ、見慣れているとはいえ異質に見えてしまう。

もし仮にうずくまる女性が100人そこにいて、ビシッとスーツで決めたサラリーマンがそこに歩いたらそれが逆に異質に変わる。

数で決まるその二者を隔てる壁は、僕たちの思考が作り出しているのかもしれない。
そしてそこに「スティグマ」という名前がつく。

あなたが“普通“でいられるのは、
あなたが作った“普通じゃない“が存在してくれているからだ。

「立派だよね」が成り立つのは
立派になれない人がそこにいるからだ。

光が当たるのは
光が当たらない影があるからだ。

きっと僕たちはこの二者の間にある差別、格差、そんな名前の色がついたフィルターを知るべきなんだと思う。

あなたが立派なのは
やっぱりあなたが“立派じゃない“と烙印を押した誰かがいるからなのだから。

世の中から、二者間を隔てる壁に名前が消えた時、そこにはかぎりなく透明に近いフィルターがあるはずだ。
いや、かぎりなく透明に近いフィルターを持つ心が増えれば、そこには二者間を隔てる名前が消えるに違いない。

透明になりたい。そう思うんだ。


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