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Short Story:王女のプチ反乱-映画

※フィクションであり、「フェイク」があります。「フェイク」はAIで使う意味に近いものです。

小寿朗は東京に引っ越してきた。家族を伴って。ほとんど手伝わない妻も、引っ越しとあっては、自分の必要とするものは、自分でダンボールを開封し、さっさと整理する。

小寿朗には、3人の子供がいた。王子たる長男に、王女たる長女に、次女。
まだ小さい。子供達も自分のグッヅをそれぞれに振り分ける。

当面、使わないものは角に押しやった。夕食の時間が迫っていた。「とりあえず、夕食だ」夕食を終え、片付けが続く。ようやく寝られる隙間ができた。5個残ったダンボールの箱。規格が同じだった。

朝、起きると、妻(この頃は女王の片鱗が見えていた)が朝食を料理し終えていた。皆でダンボールを5つ互いにくっ付くように並べた。ペンタゴン(5角形)だ。料理を運び、並んだ個別の食卓ダンボール。食器を移動するとき、少し擦れる。(さぁ、ここから出発だ)皆の頭を掠めていく。

小寿朗夫婦は子供の教育に熱を入れることはある。しかし、世の中の外れにはしたくなかった。子供達が勉強をおろそかにしないようには少なくとも気を配っていた。

王女たる長女も成長するにつれ、勉強に熱を入れているので、安心していた。しかし、高校2年生の秋頃から、第一王女の雰囲気が変わり始めた。緊張感は高まっているのに、どこか違う方向に走っているようだ。それとなく、妻に探りを入れても同じ印象だ。

小寿朗夫婦は、子供を「かほこ」と称する程だったが、過保護に育てているわけではなかった。第一王女は映画に関心を高めているようだった。帰宅時間が遅いこともあった。後で分かったことだが、映画雑誌や映画に関する本が押し入れに押し込まれていた。

成績も下がってはいなかったが、低迷していた。とうとう、小寿朗は「勉強しなさい」と口走っていた。第一王女はむくれもせず、「私は好きなことをする」と宣言した。第一王女の独立宣言だった。小寿朗夫妻は飲み込んでしまった。(うちは過保護なんだから、長女の好きにさせよう)頭の中で反芻することしかできなかった。それ以来、王女は機会あるごとに映画の話しをしていた。

時は情報化時代も過ぎ、インターネットの時代を過ぎ、スマホの時代が来ていた。他方で、情報技術あるいはデジタル技術も進んでいた。デジタル技術によるYouTube作りも始まり、Tiktokも盛んに利用される時代になっていた。映画もデジタル技術を利用して作成され、それに特化する大学も設立された。さらに、AI技術も進展し、AIを扱った映画も作製され、関心を集めた。

王女は映像学科に進んだ。ただ、デジタル技術による映画だけを扱うような学科ではなかった。そこには、王女の狙いがあった。

普通の映画はアナログな映像の世界である。実物のロケーションを用意し、実物のセットを用意し、実物の俳優が演じる。リアル感満載の映画である。

アニメーションはもはやデジタル技術による制作がほとんどである。アニメーション固有の特性がある。AIを利用した映画は、AIを対象とするものを含めて、まさにデジタル技術によりデジタル風に表現されている。その映画からリアル感を感じ取るには相当のセンスがいる。いや、むしろフィクションのフィクションたる特性がある。

王女は目指した。デジタル技術にAI技術を取り込み、映画制作はできないか。

映画は2時間のボリュームがある。定番の長さと言って良い。昔は長い映画も作製され、Theater用にも作製されたいた。あまりの長さに休憩時間(Intermishon)が設けられていた。

z世代はタイパを行うという。ずっと前から録画をレコーダーで再生するとき、倍速モードが用意されだした。基調的には、早送り時代だ。定番の2時間映画があって良いし、テレビ時代に合わせてCMと地方ニュースの時間を考慮したドラマがあってもよい。40分の尺を持つ映画。

王女は短編映画あるいはテレビドラマを考え出した。それをAI技術によって作製できないか。AI映画のように、フィクションではない、実在感のある映画を考えていた。実在感のあるロケーションを用意し、実在感のある大道具・小道具・人物に音響。これなら、大がかりでなくても実在感のある映画が作れる。

王女のコンセプトによる映画作り・ドラマ作りが行われ、初回の映画祭が開催された。AI技術を使うことから、マスコミも取り扱った。知名度がなく、認識度は低かったが、映画マニアに支えられるかのように、観客が集まった。日比谷公会堂は耐震改造が行われ、簡素だが、デジタル映画を投影できる会場となっていた。

6本の短編映画が投影され、感想が飛び交った。映画評論家は少なかったが、1人には酷評されたが、1人には賞賛された。会場でも、賛否が分かれたが、王女や同好の映画作成者やスタッフには苦労の甲斐があったと感じられていた。

すべての後片付けが終わり、会場を出た。そこに父母が優しい笑顔で待っていた。両親の眼差しに慰労のエールが滲んでいた。

---Fin