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金子みすゞ こだまでしょうか

※表題画像はちばてつや『わたしの金子みすゞ』の表紙。

こだまでしょうか、いいえ、誰でも。

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「もう遊ばない」っていう。

 そして、あとで
 さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

ーー詩は『新装版 金子みすゞ全集Ⅲ:さみしい王女』237-238。

この詩は東大日本震災の折り、公益社団法人ACジャパンのCMに取り上げられて、多くの人に知られるようになった。

この詩の「こだまでしょうか、/いいえ、誰でも。」は転結が同時に迫ってくる。童謡は楽しむことの対象になるが、時に理解に苦しむことが出てくる。この詩の最後の句「こだまでしょうか、いいえ、誰でも。」は理解が難しい。単純に、「誰でも反芻するように互いに同じようなことをしている」と理解するのだろうか。

・矢崎節夫(2011)「人を導く言葉の力~金子みすゞの詩を読む~」『致知』7月号。
人々は、「投げかけられた言葉や思い」に反応する。こだまだけでなく、誰でもそうしている。(意訳)

・高根沢紀子「こだまする愛」詩と詩論研究会編『金子みすゞ愛と願い』勉誠出版、56頁-58頁。
子どもの日常で起こる「ちょっとした意地の張り合いで、ほんとうは仲直りしたいのに言い出せない」気持ちを詠っており、誰でも一度は味わっている。

・ちばてつや(2002)『わたしの金子みすゞ』42-44頁。
「こだま」を「子ども」に置き換え、「誰」を「大人」に置き換えるという解釈をしている。

・岩見幸恵(2014)「こだまでせうか」詩と詩論研究会編『金子みすゞ作品鑑賞事典』勉誠出版、106頁。
「一人遊びか神との会話」として、「こだまでしょうか、いいえ、誰でも。」の後に、「ありません。それは私自身です」あるいは「神です」が省力されていると理解する。

最後の2文について、英語では、2つの訳がある。
①Misuzu Kaneko著, Sally Ito, David Jacobson, Michiko Tsuboi訳 (2016) Are You an Echo?: The Lost Poetry of Misuzu Kaneko. Setsuo Yazaki(矢崎節夫)の「はしがき」がある。イラストはToshikado Hajiri(羽尻利門)。

Are you just an echo.
No, you are an echo.
あなたこそ「こだま」です。もっともシンプルな解釈である。誰でもしていること、と理解している。

②「AC ジャパン CM こだまでしょうか」から。

Is this an echo to repeat anyone's words?
No, it happens to anyone.
誰にでも起こることです。