妻の記録:先生はここ?

妻は右手の打ち身で、週2回整形外科のリハビリに通っている。温浴とマッサージが主である。1階で受付を済まし、2階でリハビリをする。もう3ヶ月を越えている。

この病院には、2階にも待合の席が4席設けられており、大型のテレビが着けっぱなしになっている。妻がリハビリの間、その待合室で持ってきた本を読んでいると、老婆といってもよい位の年格好をしたシニアが杖を突いてゆっくりと歩いてきた。

「ここに先生はおるんかいのー」

「いえ、下の階だと思います」

「先回はここじゃった」

「そうですか、1階だと思いますよ」

「そうかいのー」

シニアは杖を突いているが、足取りはゆっくりしているものの、背筋はピンと張っている。

妻よりも症状が進んでいるな、と思いながら様子を見ている。一人で病院に来ているみたいだ、家族の者に送ってきているのかもしれないが、同伴者はいない。

考えを巡らしながら1階に連れて行くかどうかを判断しかねていると、シルバーはユーターンしてきた。

「ここじゃないのー」

「1階だと思いますよ」

シルバーはエレベーターの方角に進んでいく。うまくエレベーターに乗れるだろうか、気になり立ち上がってエレベーターを覗き込もうとした。そのとき、人にぶつかりそうになった。時々出会う事務の人だった。

「あっ」

二人とも小さな声をあげた。

「いや、お年の方がエレベーターにのれるかと思って」

事務の人は一旦自分の進む方向に向いていた。気を取り直したのか、エレベーターの前まで引き返す。

「私が行きましょう」

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続けて本を読んでいると、事務の人が側を通り際、

「行ってよかったです」

無事に、1階に送り届けたようだ。

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妻のリハビリが終わり、1階の受付に戻った。先ほどのシルバーが椅子に座って順番を待っている。

妻は検査結果を聞くために診察も申し込んでいた。しかし、祝日があり、十分な検査ができなかったようだ。看護師の人が呼びかけてきた。それに応えて、シルバーも同時に返事をする。看護師の人は知っているので、シルバーを諭すように応える。シルバーは思い直して椅子に座り直す。

妻が帰りの車の中で話す。

「あの人、痴呆が進んでいるのかねぇ」

「そうかもね」

あれこれとシルバーの状況を推し量る。車の中に微妙な空気が流れる。

「おかあさんはしっかり右手首を治してね」

家に着くと、ごくうが怒るように吠える。ごくうの言いたいことはすぐ分かる。

「はよ、散歩に連れて行け」

もうすでに一番星が出る時間だ。