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劇団桟敷童子に惜しみない拍手を。舞台『獣唄2021改訂版』はあなたの心と魂を熱くする感動作。

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2019年に初演され、劇団桟敷童子の創設20周年の作品として上演された舞台『獣唄』。その改訂版にあたる舞台『獣唄2021改訂版』が、2021年5月25日(火)から6月7日(月)まで、すみだパークシアター倉にて上演中だ。本作は、初演版を改訂し、新演出と新美術で届ける。初演では第54回紀伊國屋演劇賞にて劇団として団体賞を獲得、出演者の村井國夫が個人賞、また劇団員の原口健太郎が第2回すみだパーク演劇賞を受賞した。
今作も劇団桟敷童子の鉄壁の布陣。作をサジキドウジ、美術を塵芥、演出を東憲司が手がけ、地方の貧しい村に住む人々の悲喜こもごもの人生が、戦争という未曾有の運命を前にして、どのように変化を遂げていくのかが描かれる。キャストは手練れの村井國夫を筆頭に、板垣桃子や原口健太郎など桟敷童子を支える面々も揃った劇団の集大成的な作品。その舞台を観劇することができたのでレポートしよう。


文 / 竹下力

生きるも意地、死ぬるもまた意地……。

生きるも意地、死ぬるもまた意地……。罵倒され、張り倒され、蹴倒され、這いずり回り、それでも諦めずに立ち上がる。そんな想いを抱くことが人生において必要だという情念さえ感じさせてくれる、桟敷童子の劇団史においても燦然と輝く快作に仕上がった。
歯を食いしばり、「ちくしょー!」と怒鳴り散らして、生き続けることを、すなわち死ぬことに邁進することこそ、人間の本質だと言わんばかりの圧倒的な緊張感がピュアで、カラフルで、ダークな世界にみなぎっている。そして最後に差し込むわずかな希望の光。観劇後には、あらゆる痛みや悲しみや喜びが昇華され、綺羅星のごとき美しい名もなき花が咲き乱れるのを目にするだろう。

本作も、劇団桟敷童子らしく、あらゆる答えは提示されず、観客は物語を身体で感じることによってのみ答えを見つけるという、劇場で、演劇で、生の芝居で、生きていることを実感させてくれる作品でもある。

桟敷童子という劇団は、生と死に宿る運命に翻弄されながらも、それでも懲りない人間の心と魂を幾度となく舞台で表現してきた。『厠の兵隊』(2010年)で肥溜めの世界を描いたように、人間の本質を射抜くために、どんなに汚れた世界を表現しようがなりふり構わず生と死に内在するエネルギーを爆発させることを是とした活動を続けている。調和よりも対立にこそ、和平よりも抗争にこそ休息があるとさえ訴えてきた。それはパンクでありハードコアだ。

極北とも思えるローカルを舞台に、過剰な因習とそれにまつわる人々の拒否反応、妄想と現実、貧困と暴力を巻き込み、行き場のない苛立ちと諦念と生きることへの渇望という感情のるつぼを劇場に描いてきた。登場人物たちの過剰なエモーションが絡み合い、そこに土俗的なナラティブが噛み合うと、世界が変わったような感覚に襲われ、壮絶なカタルシスを味わうことができる。そんな思いをことさらに抱くのは、今作に思い入れがあればなおさらだろうか。

初演の観劇日の朝9時ごろだった。突然電話が鳴り、劇団員から主演の村井氏が急病で降板し、その日が休演になる旨を聞き、心を痛め心配していたのと同時に、数日後、原口健太郎を主人公の梁瀬繁蔵に据え、上演を始めたと聞いて、劇団の底しれぬパワーに感激した。やらねばならぬ熱情さえ感じた。
というわけで、観劇日に観劇できず、初演を見逃してしまった。ただ、残念な気持ち以上に、劇団の結束力を感じて心強かった。その想いは、劇団内にもあったのだろう、その結果、数多くの賞賛を得ることになる。
だから、このコロナの状況下においても、改訂版として再演すると聞いて、期待値は高まっていたし、それだけ自信作なのだろうと思っていたが、想像を遥かに超えていた。

どこまで何もない裸の大地に立って生き延びることができるかというアナーキーな挑戦状

時は日中戦争の最中。戦争に対する不安と国家政策の不条理が忍びよる軍国主義の日本の貧しい九州の山村が舞台。そこでは、高い崖に咲く、野生の蘭を収集し、それを売って生業とする「ハナト」という役割の梁瀬繁蔵(村井國夫)がいる。彼以外は山で花を採取できない村の習わしになっていた。彼には3人の娘がいる。長女のトキワ(板垣桃子)、次女のミヨノ(増田薫)、三女のシノジ(大手忍)。しかし、彼女たちと父親はとある事件がきっかけで絶縁状態。そんな時、花の買付業者の社長である伸輔(原口健太郎)が満州から帰国。繁蔵に幻の蘭「獣唄(ケモノウタ)」を見つけて欲しいと託す。時を同じくして、「ハナト」として蘭の採取をしたいと願っていた長女がさまざまな思惑を胸に父に弟子入り。父と娘たちの、日本の未来の時計の針が動き始める……。

舞台は、父と娘たちの相克と和解がメインプロット。しかし同時に、義理と人情はありながら非情な縦社会から抜け出せず、そこに縛り付けられている人々の声にならないノイズを集め、昭和初期という時代の現実と、国家の同調圧力がもたらした歪んだ社会もあらわにしていく。

時代設定でいえば、日中戦争の激化にともない「国家総動員法」が採択され国が軍需に力を注力し始める頃。また、1940年に開催されるはずの東京オリンピックが閣議決定で幻のものとなる。人々は、戦乱に巻き込まれ、どうにも生きることが鬱陶しくなる。時代は荒れていく。その中でも、九州の農村では、古くからの因習と村社会の掟がまかり通っていた。すべてががんじがらめになって動けなくなる状況を、他ならぬ人間自身が作り上げ、それをどのように自己解体するのかが本作の見どころでもある。最終的には、人間はあらゆる社会や因習から解放され、どこまで何もない裸の大地に立って生き延びることができるかというアナーキーな挑戦状として受け取ることもできるだろう。

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自然や人間を超越した、弱々しく悲しげで、怒りに満ち、なおかつくたびれない万物の魂

塵芥の美術は凝った作りで、狂気を感じさせるイメージを舞台空間すべてに表現する。建て込みされた装置は、意味を指し示すというよりもシンボリックであり、情念に満ちて、美しく同時にリアルであるという誰にも真似できない領域に達している。

サジキドウジの作劇は、それぞれの登場人物の感情を凝縮させる台詞回しを散りばめながら、そこから感情が抜け出ていくシーンを何度も描き、物語に抑揚をつけカタルシスを与えていく。感情の屈折したうねりで、人間の欲望、あるいは願望、さらに絶望と希望を暴き立て、ひたすら人間そのものを立脚させていく。今作は、根底に悪人がいない点も刮目すべきだろう。見方によっては、善悪の判断が変わるし、観客の年齢の位相によっても捉え方も違ってくる。答えは観客の数だけある多層的なキャラクターの造形になっていた。なおかつ、今作は悲しい運命を背負った梁瀬家の成長物語としても描かれている。
あらゆる事件、あらゆる言葉、あらゆる出来事に、何かしらの感情が込められ、観客の感情も極限まで圧縮され、そこから解放されるので、凄まじいカタルシスを幾度となく味わうはず。台詞がまとう熱量は今作でも健在だ。方言による体言止めの多用は彼の特徴だけれど、そうすることでメタファーの幅を広げ、直截的でありながらも詩的な言葉遣いで、人間の内なる宇宙を垣間見せてくれる。人間の存在を極限までストイックに見つめ直すという、これぞ演劇というマジックが炸裂している。

東憲司の演出は、ライトや音楽、それからセットを巧みに使いながら、登場人物たちの感情のうねりを頂点まで持っていく。時には彫刻のように絡み合った感情を融合させて研磨し、ユーモラスにバラバラにしたかと思えば、また回収し解体し続ける。そうして観客の感情を揺さぶりながら物語の出口へ誘う。さらに人間の対位として配置されるのは自然である。人間主義と自然主義の対立は、それこそ何十年も前から描かれているけれど、それ以上に、主義を超えた東憲司の理想を感じさせる。ただし、その本質は、演劇=物語という幕に覆われて隠れている。それは醜悪かもしれないし、美しいのかもしれない。それはわからない。そのわからなさというモヤモヤした感覚が観客の感情のひだを刺激し続ける。舞台の楽しみの真髄がここにある。
それでも、物語の背骨として描こうとしているのは、自然や人間を超越した、弱々しく悲しげで、怒りに満ち、なおかつくたびれない万物の心と魂だ。それらをむき出しにして観客に新たな価値観を与えてくれるクライマックスの演出にはいつもながら目を見張る。

物語が作り上げた時代を懸命に生きたキャストの芝居

キャストたちは、村井國夫を筆頭に、自分の役割に徹していて、桟敷童子でしか味わえない実直な芝居に感動した。因習にさからい、村から反感を買う山浦岩男役の三村晃弘や、彼を押さえつけようとする村人たちの芝居も理にかなっていたし、義理と人情を地でいく伸輔役の原口健太郎もブレない。すべてのキャストが一本気だ。それでいて、戦争という巨大な運命に挑む日本人の悲劇性を表現していた。どのキャストも、物語が作り上げた時代を、その中で矛盾を抱える日本を、懸命に生きていた。特に、梁瀬繁蔵とその娘の3人を観ていると、村に根を張る閉塞感、生臭い因習、物語のヴォイス、あるいは当時の時代状況がクリアーにわかる。

梁瀬ミヨノ役の増田薫は、幼い頃の怪我が原因で、姉妹だけでなく村人たちにも見放されているような疎外感を覚え、村から出ることが唯一の希望なのに、村という檻に閉じ込められている。彼女はもどかしさと悲劇を役の中で体現していた。梁瀬シノジの大手忍は、3姉妹の中で一番闊達な性格を演じ切った。攻撃的なのにいじらしさも感じさせる。大手は桟敷童子の他の作品でも、どんな役もこなせるバイタリティーに溢れ、誰もが愛おしくなるキュートさと熱意を醸し出せる俳優で、目が離せなかった。

梁瀬トキワ役の板垣桃子は、姉妹をまとめる長女として、娘たちをおざなりにした父親に対する怨念と、父親が村の特権を利用していることに対して、それを手に入れることのできないコンプレックスを同居させながら、親に対する愛憎が入り混じった芝居が見事だった。登場人物の中で最も感情が激しく揺れ動くカオスな性格で、自暴自棄な行動を起こしながらも、徐々に父親に愛情を抱いていく変貌ぶりはスムーズ。そのおかげで、物語には必然性が生まれ、破綻がなくお話を進展させるプレイヤーにもなっていた。
板垣はどの役をやらせても、心情の転嫁がとても上手で、誰かを嫌いになったと思ったら好きになり、好きになったと思ったら嫌いになるという、感情の流れが豊かで情感に溢れている。台詞回しが凛としているから、過度なセンチメントに流されない意志を感じさせるところも感心する。

梁瀬繁蔵役の村井國夫は、村の因習を反故しながら己の仕事のプライドを貫こうとする頑固で、首尾一貫とした性格の男を熱演。それでも、娘たちとの心の交歓を通して、感情の振れ幅が大きくなって、より人間臭くなっていく緩急自在の芝居に目を見張る。娘たちとの諍いや和解によって、彼の心が徐々に優しさを帯びていく様に熱意が込められて思わず「上手い」と唸ってしまう。また、彼特有のダンディズムにえも言われぬ色香が漂っていて、繁蔵の強がりゆえに生じる生存の悲しみがくっきりと浮かび上がっていた。

人間は狂おしく愛おしい存在

生きるも意地、死ぬるもまた意地……。生を貫徹することは、死を貫徹することである。「死算」という詩で淵上毛銭は、過去の長さと未来の長さは同じであると書いた。あらゆる現象はかならずプラマイゼロになる。悲しみも喜びも怒りも楽しさもやがて消えてしまう。生きることは人間にとってセンチメンタルな旅だ。だからこそ、人間はたまらなく狂おしく愛おしい存在なのだ。この舞台を観ているとつくづく感じる。
そして今作は、人間の愚かさや悲しさ、喜びが波のように現れては消えて、ないまぜになったまま、絶望と希望の果てへと連れていってくれる。そこで我々は何を見つけるのだろう? それはあなたの経験の集積と心と魂が刻んだ歴史が導いてくれる。そしてその答えを見つけた時、あなたは新しい自分になっている。未来へ一歩足を踏み出せる勇気が宿っているはず。

劇団桟敷童子は、人間という存在のすべてを真摯に受け止めながら、あなたの心と魂に変革をもたらしてくれる優しい革命家たちの集団なのだ。今作のような素晴らしい作品を届けてくれた彼らに惜しみない拍手を。

公演は、2021年5月25日(火)から6月7日(月)まで、すみだパークシアター倉にて上演される。また、今年の11月の後半には新作公演も予定している。こちらも楽しみに待っていよう。

劇団桟敷童子
『獣唄2021改訂版』

2021年5月25日(火)〜6月7日(月)すみだパークシアター倉

作:サジキドウジ
演出:東憲司
美術:塵芥

出演:
村井國夫

板垣桃子 原口健太郎 稲葉能敬
鈴木めぐみ 川原洋子 山本あさみ
もりちえ 大手忍 三村晃弘
柴田林太郎 増田薫 羽田野沙也香

坂口候一 石原由宇 鈴木歩己
原田大輔 浅井伸治

オフィシャルサイト
オフィシャルTwitter(@douji_s)

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