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言えないこと


「ここにりんごがあります。

そのまわりには、そのりんごがほしい人たちがいます。」


この文を読んだだけで、
焦るというか、怖くなった。

私は反射的に「譲らなきゃ」と思ってしまう。
はやく譲るか、その場から去らなきゃと思った。



年末に「まただー」と思う出来事があり、
自分と向き合っている。

私のせいじゃないと言葉をかけてくれたけど、
自分のせいじゃなく起こることの方が
本当にどうしようもなくて悲しいような気もする。

自分にできることは自分と向き合うことだった。
今日、街を歩いたり人の言葉を読んでの
自分の感じ方、出てきたことを書いてみる。



街で、家族や恋人と歩いている人を見ると
うらやましくなるけど
私にはそう遠くない実家に家族がいるのに
私は帰らないし
この間なんか、会いに来てくれたのに
私はひとりだと思っている。
持ってきてくれたものも、食べれないでいた。
「ある」のに、受け取れないことがある。


どこかで、誰の一番にもなれないと思っている。
幼稚園生のときから思っていた。
早生まれなのに背が高いせいか
男の子から女の子を守ってあげなきゃとか
風船が足りないときは譲ってあげなきゃとか思っていた。


でもこうして書いていて気づいたのは、
お母さんにもそうゆうところがあるかもしれない。
何かが足りないとき、
自分はいいからと譲ってくれようとしたのはいつも少し悲しかった。
お母さんのことが好きだから、お母さんみたいに優しくなりたいとか
自分はいつももらってるからって気持ちもあったのかなあ。


ずいぶん忘れていたけど
小さい頃は兄ちゃんの方が親に愛されていると感じていた。
私は兄ちゃんのやる様子を見て学習して
うまくやろうとして、なんとなくできていた気がするけど
真正面からやってみる兄ちゃんの方が
愛らしくて、大事にされているような気がしていた。


お父さんとお母さんは、私がやりたいと言ったことは
ほとんど全部やらせてくれた
感謝しているし、仲もいいし、
友達に会わせたいくらい素敵な親だと思う


ただもっと怒って欲しかったのかもしれない
(怒られるの、本当に苦手だけど)
先回りしてやってくれたことは
あんたにはできないからと思われてると
無意識で受けとっていたかもしれない


こんなに良い親なのに
こんなこと書くなんて私という奴は…と思うけど
お母さんやお父さんのせいにしたいわけでもない


私は私のことを
「できない」とまだ思っているところがある
できないということにして
いじけることで両親を振り向かせたい時期があった
(リビングのソファでよく、誰も気づいてないと思うけど、いじけて泣いていた。笑)
あの頃から乗り越えれてないんだなあ。


大事な人がほしいと思うけど
今の自分にはやらなきゃいけないことが終わっていないとか
「できない自分」というところとループしていたりする。


今考えていることを誰かに言っても、
そんなことないよってかばわれたくないし
「いや、だめなんだってことを認めてほしいだよ」ってなるし
ということで今はひとりでいた方がいいんじゃないかとも思っている


受け取れる余白がずっとなくて
自分と向き合う時間が必要なんだ
そう思ってこれも書いている


りんご、
じゃんけんで決めてもいいし
切り分けてもいい
頭ではわかってるけど
「欲しい」が言えなくて最近よく泣いた。
思えば、言おうとする経験値が足りていないのかもしれない。


私は人が照れるようなところは恥ずかしがらずに言えたりするから
少し前まで、自分が「言える」ことを
「言えない」人のことが、わからなかった。
なんで言ってくれないんだろうと思っていた。


でも私の場合、本当に欲しいものを
「言えない」んだ。
自分でもどうしてかわからないくらいに
「なんで言えないんだろう」って涙が出たりする。


どうしたらいいかは
「出ていこうかっ?」って
出番を待っている先人の言葉たちがいる気配を感じる。

でも今この場は、ひとまず置いといて
浮かび上がってきたこの声を一旦記録する場にします。



なんだかネガティブな内容に見えると思いますが
こころの底(まだこれが底かはわからないけど)、無意識にあったことを
出してあげることが必要のように思ったので、書いてみました。
言葉にはしなくても、ずっとわかっていたんだけど、
書いてると涙が出てきたー。

ややこしいけど、「言えない涙」とは違う涙。
傷ついたときじゃなくて
それに気づいてもらえた時に涙が出るから
小さい頃の自分の分が見つけてもらえた涙かもしれないです。

一歩進めたら、また書こう。

読んでくれた人、ありがとう。


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