見出し画像

何かをやめることは、何かを始めることと同じくらい尊い

わたしはこれまでにいろんなことをやめてきた。中学生の時は友だちに誘われて入ったバレー部が合わなくてソフト部に入り直したり、高校ではやはり友だちと一緒に入った女子バレー部をやめてバイトを始め、そのバイト先に違和感を覚えてトンズラしたり、はじめて就職した先で居心地の悪さを感じて一日でやめたり、3.11の震災で『いつ死んでも後悔しない生き方をする』と決めて会社をやめたり、定期収入を捨てて気が乗らない仕事を請け負うことをやめたり。

先日、会社をやめた話をしていた時に、夫から「何かを自分でやめるってすごいことだと思うよ」と言われた。
え、そんなことが? とびっくりした。
びっくりしてから、『惰性で流されている中、そのから自分の意思で抜け出す決意ができるのは、たしかにすごいことかもしれない』と思った。

たとえば、震災をきっかけにやめた会社は、全体に流れる雰囲気というか、意思というか、そういうものが荒んでいるところはあったけど、わたし自身はほとんど残業もないし、仕事に責任はないし、ミスをしても有能な上司が怒らずに処理してくれるし、そもそも仕事がほとんどないから好き放題眠ったり遊んだりできるし、人間関係も、イライラしやすいお局様的な人はいたものの、基本みんな優しくて、ほどよい距離感があって居心地は悪くなかった。
   
給料は手取りで15万円くらい。安いけど、一応ボーナスも出るし、実家暮らしだったから『こんなに楽して毎月十数万円ももらえるなんて楽だ』という気持ちがあった。

一方で、単純作業ばかりで、やり方を覚えてしまった後はほとんど何も身につかない仕事に人生の大半の時間を費やしていることに焦りや怒りも感じていた。
その頃は常に体調が優れず、仕事以外の時間は疲れてほとんど何もできないような状態だったので、余計に何のために生きているのかわからなかった。

それでも、わたしみたいに体力がなくて、コミュニケーションに難があって、仕事をこなしているのか増やしているのかわからない人間が働き続けられているのは奇跡だと思ったし、そこをやめたら他に働けるところを見つける自信もなかったから、自分から動いて環境を変えるよりは楽だったのだ。
  
その後、冒頭の方で書いた通り、3.11の震災がきっかけで『ここで死んだら絶対に後悔する』と思って仕事をやめることにした。
親に話したら絶対に反対されると思ったし、反対されたら決意が揺らぐと思ったので、先に辞表を提出してから事後報告で済ませた。

あの時、『ここをやめたら生きていけないから』と会社にすがりついていても不思議ではなかった。ここに書き切れていないことも含めて、いろんな後押しがあったとはいえ、不安を振り切ってやめると決めるにはなかなかの勇気が必要だった。
決めてしまったら、身体が軽くなって、未来への希望でいっぱいになったんだけど。

やめて後悔したことなんてひとつもない。なにかをやめる度に、わたしの人生はちょっとずつ好きな色に変わっていった。
いま、ふり返ってみて、『これまでもずっと、自分から動いて求める環境を手に入れてきたんだ』と思ったら自分に対する信頼感が増した。

やめるって、違和感に気付いて不要なものを手放す行為だから。やめることは何かを始めることと同じくらい尊いこと。
『逃げたことになるのかな?』と自分を信じられなくなったこともあったけど、今は、自分を守るために逃げることを決意できた過去の自分が誇らしいし、逃げた先で素敵な出会いがたくさんあった。人だけでなく、体験なども含めて。

会社をやめた後も、いろんなことを始めて、そしてやめてきた。ひとつやめるごとに、やめることのハードルが下がっている気がする。
やめるハードルが下がるのに比例して、始めるハードルも下がっている。

軽やかでいいなあと思う。もっともっと軽く生きていきたい。

いつもサポートありがとうございます。 『この世界の余白』としての生をまっとうするための資金にさせていただきます。