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上杉鷹山 その2


上杉鷹山の師匠、細井平洲の教えは経世済民(世を治め民を救う)を目的にしており、彼の述べる「根本三ケ条」にその実学的な特徴が表れている。その内容は、①「入るを量って、出るを制す」、②「節倹の政の目的は仁(人への思いやり)」、③「上下、心を和す」、の三つの内容が掲げられており、非常にシンプルであるが、的を射たものだ。

細井平洲の教えを抱き、米沢入りした鷹山は、竹俣当綱(たけのまたまさつな)を中心に改革を進めていく。贅沢と浪費の無駄を省く「大倹約令」を出す一方、「人に教えるときは、まず自分のことをよく理解して、清廉潔白で謙虚な気持ちでないと、人は心から尊敬して従うことはない」と述べ、自ら率先し、木綿の着物を着て、生活費を前藩主の7分の1にして生涯を通した。

改革推進に当たって、最大の壁となっていた改革派と守旧派の心の壁を、「上下、心を和す」の細井平洲の教えに従って取り除き、藩内の一致団結の雰囲気が、藩士と農民の間にできて、愛と信頼の関係が築かれた。その上で、農耕地を増やしコメの量産を図るなど、農業改革に取り組むが、それだけでは、財政の改革を図ることは難しく、付加価値の高い藩の特産品を生産し、全国に輸出して外貨を稼ぐ必要を、鷹山は痛感したのである。

鷹山は米沢藩の青苧(あおそ)に目を付ける。青苧は、全国的に名高い織物の奈良晒しや越後縮の素材に用いられていた。織物の原料としての青苧を、最終製品にして付加価値を上げるために、加工技術の習得が必要であるが、1767年(明和4年)、越後松山と信州から専門職人を招聘し、彼らの指導のもと、高品質の技術立国を目指して、その目的を果たす。現代に生きる高い品質の米沢織はこうして誕生し、財政回復の一端を担ったのである。

鷹山は「産業を盛んにし、輸入藩から輸出藩へ」とする基本方針を打ち出した。そのため、竹俣当綱は、「漆、桑、楮(こうぞ)の100万本植え立て計画」を発表した。漆の実はろうそくの原料で、桑は養蚕のため、楮は製紙の原料となる。

具体的には、領民に目標値を与え、支援組織を作って、資金を援助し、成果が上がると藩が買い上げた。苗木や植え立ての費用は江戸の三谷三九郎(江戸の両替商、豪商)からの借り入れにしたのである。

鷹山は、人の教育に資金を使い、各種の特産物の生産技術を磨き、付加価値を生み出し、藩外に輸出できる製品となることで、藩が豊かになると考えた。

鷹山が起こした産業で、今日でも、山形県に残っているのは、成島焼き、米沢織物、相良人形、塩、手すき和紙、燧(火打石)、扇、墨硯など、多くの産品が残されている。

藩政改革の前期は、竹俣当綱が中心となり、一定の成果を上げたとは言えるが、まだまだ、不十分であり、改革の後期に入り、いよいよ、上杉鷹山の藩政改革は本物になっていく。

細井平洲を江戸から呼び寄せて、藩士だけでなく、農民や町人にも平洲の教えを学ばせ、優秀な生徒らが藩内で改革の担い手となって活躍することにより、幅広い改革の流れが出来上がっていくのだ。

上杉鷹山は、「学問で人を育て、人質(人間の質、教養、徳性)が良くなれば良くなるほど良い国ができる」という強い信念を持って、「與譲館」を再興する。「美徳を治め、悪徳を除くために譲り合う気持ちを持つ」という意味の與譲館が、人間教育の場であるだけでなく、実学を収める場にもなった。

「天明の大飢饉」(1782-1788)は、米沢藩だけでなく、東北地方を直撃し、さらに全国規模の大飢饉であったが、飢饉対策の具体策として、「20年の貯蓄計画」を作成し、農民の救済に努めた。

天明5年(1785年)の全国の人口が、対前年比で4.6%(140万人)減少したのに対して、米沢藩は対前年比2.3%であり、少ない被害であった。1783年からの7年間を4,695人の人口減少に食い止めており、鷹山の改革は実効を上げていたことが分かる。他藩の人口減少は大変なものであった。

上杉鷹山は、35歳の若さで隠居し、養子としていた治広(前藩主重定の実子)に藩主を譲る。

しかし、治広の改革が進まず、領内の人々が鷹山の復帰を求めると、その支持に答え、隠居から6年後、41歳になった鷹山は、治広を後見する立場で再び改革を断行する。

復帰後は、莅戸善政(のぞきよしまさ)を中心に立て、また立派な意見書である『管見書』を書いた藁科立遠を御記録所係に置いて、改革を進めまた。

鷹山は、新藩主の治広に「伝国の辞」を授け、逝去するまで後見し、藩政を実質指導した。

「伝国の辞」の内容は、

①国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)のものではない、

②領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない、

③国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、「君主のために存在・行動する国・国民」ではない、

という三箇条を心に留めて忘れないように家訓を残した。上杉家は、この家訓を伝承として藩政を執り行ってきたのである。

それは、若き日、米沢藩改革のために江戸からお国の米沢藩入りしたときの鷹山のあの決意と覚悟の心情、

「うけつぎて 国のつかさの 身となれば 忘るまじきは 民の父母」

という歌に歌われた、「民を愛し、民を育て、民の父母となる」ことと合わせて考えれば、愛民の君主、愛民の教育、愛民の父母、すなわち「愛民思想」の精神であった。これが上杉鷹山の仁徳を表す精神の要諦である。

黒井半四郎を立てて行った治水工事は、歴史に残る画期的なものであった。水不足に苦しんでいた北条郷(米沢市北部から南陽市までの地域)に水を送るため、藩と農民が一体となって作った農業用水路「黒井堰」(北条郷新堰)を、1795年(寛政7年)に完成させた。堰の長さは8里(約32キロメートル)という大規模のもので、どれほど、農民が潤ったかわからない。偉大な事業である。

1802年(享和2年)、剃髪して鷹山と号した年に、鷹山は飢饉救済のマニュアルを『かてもの(糧物)』の題で発行する。食べ物になる植物について詳しく述べている。どこまでも、民を救済する鷹山の姿勢を窺わせる。

1821年(文政4年)、鷹山は老衰のため、永眠した。享年72歳(満70歳)。ケネディも驚き称えた江戸時代の聖人である。

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