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シェイクスピア参上にて候第十章(ニ)


第十章 シェイクスピアは日本を愛す


(ニ) シェイクスピア様のお墨付きで才鶴は結婚に踏み出す

わたくしは、藤沢のわが家に帰り、のんびりとした気持ちになりました。

父は銀行勤めを終え、退職金暮らしに入っていましたが、友人の誘いから某大学で金融論の講義を週一回担当してくれる人物を探しているという情報を得て、大学に連絡を取ったところ、すぐに面接ということになり、幸運にも採用が決まり、その大学での講義に生きがいを感じていると、話してくれました。

そして時間を見つけては、近傍の眺めの良いところや、名所に出掛け、写真を撮るのが何よりの趣味になっているということでした。

母もまた、趣味に生きているようで、俳句の会に週一回通っているということでした。そのほかに、陶芸に嵌まっており、どちらも本当に楽しいと言いました。

二人とも、人生を忙しく、しかも、趣味という楽しさの中で過ごしているのはとても良いことで、老化防止にはもってこいだと、二人の姿を見てつくづく感じた次第です。

この両親、まだまだいけるな(長生きしそうだな)と思いました。二人で出かけることはないのかと訊きましたところ、月に一回、銀座に出掛け、美味なメニューを探し出して、楽しんでいるということでした。

そこに、突然降って湧いたように息子が帰ってきたわけです。二週間の限定帰省ではあったとしても、元気な息子の姿を間近に見て過ごす時間が与えられたことは、父母にとって何よりの喜びであったことは言うまでもないでしょう。

さて、二週間をどう過ごすか、具体的な行動計画がにわかには浮かんでこない中で、ふと思いついたのが、高校時代、大学時代、よく遊びに行った江の島に、明日、行ってみようという考えでした。海岸線がわずか四キロメートル、標高が最高でも六十メートル、あの小さな江の島です。

その日は、非常に良く晴れた一日でした。

思い起こせば、高校時代、大学時代、わたくしは江の島に何の目的で足を運んだのか。ヨットに乗るためではありません。スポーツは、もっぱらテニスの方でしたので、ヨットがわたくしを江の島に呼んでいたのではありません。サーフィンでもありません。

江の島神社が青年時代のわたくしを呼んでいたのです。

ロンドンから帰って、訪れたその日も、かつて訪問したように、江の島神社を構成する奥津宮、中津宮、辺津宮の三つを必ず参拝するという習慣を再現しました。

参拝の最後の締めくくりは、いつも中津宮で、そこにある中津宮広場を最終の場所としていましたが、今回もそのようにしました。

海を見渡すことのできるウッドテラスの場所から、何も考えずに、ただじっと海を見るのが好きでした。この日も、かつてしたように、そうしました。

訪れたその日、ウッドテラスには他に誰もいませんでした。テラスに置いてある椅子に腰を下ろし、休息していたその時です。シェイクスピア様に声を掛けられました。

「懐かしい故郷に帰り、懐かしい場所を訪れましたね。どうですか、お気持は。

私の故郷は、イングランドの内陸部にあるストラトフォード=アポン=エイヴォンですが、あなたは海辺の町で生まれ育ち、江の島海岸やその海岸と陸続きのこの島で遊ぶことのできる環境がありますから、うらやましいですね。私にはありませんでした。

しかし、どういう環境であれ、基本的に故郷はいいものです。ただし、あまりにも苦しいことがあり、恨みの多い故郷であれば、故郷はいいものだということはできませんが、そうでない限り、故郷はいいところだと申し上げているのです。

幼い心の中にしみこんだふるさとは、生涯にわたり思い出す掛け替えのない場所です。ストラトフォードは私にとってそういうところでした。」

「本当にそうだと思います。中学校一年までを北陸の越前市で過ごしたあの家そしてあの学校はわたくしの心の中にはっきりと残っています。

父の仕事の関係で藤沢に移って以降、江の島海岸と江の島は心の中に強く焼き付いています。

寄せては返す白い波、江の島の中津宮にあるウッドテラスから眺める太平洋、それらが心象風景として刻印され、世界中どこへ行っても、忘れることができません。」

「近松さんは、一人息子ですが、私には八人の兄弟姉妹がありました。五人の兄弟と三人の姉妹ですが、私の上に兄が一人、姉が一人、私の下に、弟が三人、妹が二人です。近松さんには、ちょっと想像できませんね。」

「そんなに大勢ですか、とても想像できません。やがては、わたくしも結婚し、子どもを儲けるのでしょうが、一体、何人の子どもができるのやら、一人なのか、二人なのか、結婚のイメージ、家族のイメージがもうひとつ湧いてきません。」

「分かっています。あなたが萩野琢治教授によって見込まれ、姪っ子さんの米倉アキ子さんとの結婚話が進められていることをわたしはすべて知っています。

重野誠CEOまで、頭を悩ましておられますね。仲人をするのかしないのか、二人は結ばれるのか結ばれないのか。

あなた方二人のことで勝手に周りが騒いでやきもきしているということでしょうが、そんなに心配しないでください。わたしシェイクスピアは十八歳で結婚したのですよ。

まあ、細かいことは抜きにして、とにかく早い結婚でした。相手は二十六歳のアン・ハサウェイという女性です。八歳違いです。」

「そ、そうなんですか。すごいなあ。わたくしはどうしたらよいのでしょうか。シェイクスピア様的に言えば、さっさと結婚してしまいなさいということになるのでしょうか。わたくしは十八歳をとうに過ぎていますが。」

「米倉アキ子さんはとても素敵な女性です。あなたが躊躇っていたらよその男性に取られてしまいますよ。結婚を前提に付き合いを始めることです。そのことを言いたくて、あなたに、こうやって現れたのです。」

「そうでしたか。シェイクスピア様にそう言われますと、何だか、もやもやと悩んでいた心の霧が晴れました。

シェイクスピア様のお言葉と神社めぐりで、縁結びがしっかりと定まったという感じです。ありがとうございました。

米倉さんに結婚を前提としたお付き合いを、思い切ってお願いしてみます。今後ともよろしくお導きをお願いします。」

「ははは。心配いりません。すでに彼女もその気ですよ。それでは幸運を祈ります。」

このシェイクスピア様のご顕現による決定的な言葉、米倉アキ子さんとためらうことなく結婚せよという天啓をいただいたことで、わたくしの一切の迷いは拭い去られました。

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