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偉大な日本人


「肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)のこと」


肥沼信次(こえぬま・のぶつぐ、1908-1946)という人物をほとんどの日本人は知らずにいると思う。ここ最近、テレビやYOUTUBEなどでもようやく取り上げられるようになったので知っている人もいるだろう。

彼は「ドイツ人が神と慕う日本人医師」である。八王子に行く用事があり、市の中心部の中町公園に建てられた肥沼信次博士の顕彰碑を見て、一体この人は誰だという疑問を解いていくと、とんでもない人物であることが分かった。

日本医科大学と東京帝国大学で医学を修め、ドイツに渡った肥沼信次は、コッホ研究所を経て、最終的にはベルリン大学の教授になっているから、その優秀さは言うまでもない。彼は多くの発疹チフス患者を救った愛の医師である。

第二次大戦中、欧州では数百万人が発疹チフスで亡くなった。ヴリーツェンという町で献身的な診療を続け、数多くの命を救ったのである。最後には彼もまた発疹チフスに侵され、天に召された。

ヴリーツェンには日本の桜が百本植えられ、春には街のあちこちで美しく咲いた桜の花が、偉業を遂げた肥沼信次博士を喜ばせているようだという。


「エルサレム」


十数年前にイスラエルを訪れ、主要な史跡を見て回った時のことである。エルサレムの旧市街地(東エルサレム)に足を踏み入れたとき、狭い地域が、キリスト教地区、アルメニア教会地区、ユダヤ教地区、イスラム教地区に四分割され、それぞれの場所で、それぞれの宗教のお土産店が所狭しと、ひしめき合っていたのを思い出す。狭い路地の右側はイスラム教地区、左側はユダヤ教地区といった具合だ。エルサレムは複雑だなあと思った。

米国大統領がイスラエルの首都をテルアビブではなくエルサレムであることを承認する発表を、2017年12月5日に行ったとき、これは揉めるぞと直感した。あのエルサレムの複雑な構図が脳裏に再び蘇った。

「エル」+「サレム」=エルサレムは、エル=神、サレム=平和、の意味であるから、「神の平和」が実現されなければならない場所である。果たして、どうなるのか。

欧米、ウクライナ、中国、ロシアなど、複雑に動く国際情勢の中で、小国とは言え、イスラエルは、何かと世界の動きと表裏一体であり、その影響を受け、あるいは影響を与える国家である。

とにかく、平和を祈りたい。


「聖書の言葉」


聖書の言葉には人の魂を打つ力がある。例えば、「ローマ人への手紙」の中にある、「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい」「喜ぶものと共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」「自分が知者だと思いあがってはならない」「すべての人に対して善を図りなさい」「できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」(ロー人への手紙12:10-18)などの言葉を読むと、何の変哲もない当たり前のことを述べているように見えるが、これが世の中の人々には簡単にできないことばかりなのである。

尊敬ではなく蔑み、共に喜ぶのではなく足の引っ張り合い、思いあがっている人々、悪を図り陰謀で貶めようとする人、争いを好み平和を知らない人、今、世界は愛と平和ではなく、憎しみと争いで渦巻いている。2022年度、我は如何に生きんや。人が人であることの真の本性に従って生きたいと思う。


「内村鑑三」


内村鑑三の言葉にはびっくりさせられることが多い。たとえば、「成功本位の米国主義にならう必要はない。誠実本位の日本主義にのっとりなさい。」という言葉である。

米国留学を経験した内村鑑三は、米国の何を見たのか。ひたすら成功を追い求めるなかで誠実を置き去りにしている米国を見たのか。米国主義にならう必要はないと言い切った内村鑑三にはやはり米国への失望があったのだろう。

キリスト教国家の米国から多く学ぼうと勇んで米国にやってきたが、期待したものが見つからないと思ったのである。

米国は言わずと知れたスーパーパワー(超大国)である。当然のことながら、世界一の国は世界一の覇権を握っている。その上がないという最強国家が陥る罠があるとすれば、それは傲慢さである。

誰の言うことも聞かない。謙遜さを失えば、誠実さもなくなり、あの手この手で獲得する成功の果実のみがすべてとなる。米国よ、謙虚に神の声を聞き給え!


「アマルティア・セン」


アマルティア・セン(1933- ノーベル経済学賞受賞)というインド人の経済学者は、経済と倫理の関係を深く探究した学者として知られるが、経済が自己利益を追求する活動という一般的なイメージが強いのに対して、セン自身は彼の哲学的立場から、「共感(sympathy)」や「コミットメント(commitment:責任を持った関わり)」が経済活動の動機となるべきだと主張する。

センの言う「共感」は「他者への関心が直接に己の福祉に影響を及ぼす場合に対応している」と見て、自分の利益と他人の利益は一致するという視点に立脚する。

他方、「コミットメント」は、「他人が苦しむのを不正なことと考え、それをやめさせるために何かをする用意がある」とするような場合であり、責任を持った関わりを明確にする。

従って、コミットメントの場合、自分の利益にとって不利であっても、「不正なこと」をやめさせようとする行動原理が働くことになる。

アマルティア・センの経済学理論は、多岐に亘っており、一口では言えないものがあるが、経済学の中に、彼の言う「コミットメント」のような概念を入り込ませることによって、経済学の常識が根本からの見直しを余儀なくされる可能性が出てきてしまったわけである。

この背景には、貧困や飢餓などの社会問題を凝視し続けたセンの熾烈な問題意識があったことは言うまでもない。




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