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日本の絵画 その3

和田英作:「渡頭の夕暮れ」

『渡頭の夕暮』という作品がある。作者は和田英作(1874‐1959)で、東京美術学校(現・東京芸術大学)の西洋画科の卒業制作の画として描かれたものである。和田が23歳(1897年)のときの作である。明治期の日本の風景が鮮明に描かれており、農夫の家族が夕日に染まった多摩川の畔に立っている。

長い柄の付いた鍬を肩に掛けているのは、おそらく祖父であり、腰を下ろしている息子、赤ん坊を背負っている息子の妻、そして成長してはいるがまだ幼い男の子が二人、合計6人の家族の姿が描かれている。

一日の労働を終え、家路の途にあるのであろうが、この画面に描かれていない祖母が家で食事の準備を整えているはずである。百年余り前のわが日本の明治期の農夫の家族の姿が、観る者の郷愁を誘いつつ、画面からにじみ出ている。

いわば、この画は日本人の原風景とも言うべきもので、すべての日本人の潜在意識に眠る日本的な郷愁とロマンの景色である。

渡頭(ととう)、すなわち、渡し場であるからじっと見つめている視線の先に、渡し船がやってくるのを捉えていることになる。腰を下ろしている若い父親以外は、みな近づいてくる渡し船に見入っているということになろう。

令和の現代の農家では、こういった光景は想像することもできないが、一家総出で農作業に精を出す明治期の日本では、ありふれた姿であっただろう。子供たちを保育園や幼稚園に預けるなどというのは現代の話で、子供も赤ん坊も全部、畑に連れて行って一日を過ごすということである。

水をたたえた多摩川の茜色の夕日は、「今日はこれで終わり」と一日の労苦を慰労する大自然の慈悲深い色彩なのである。この6人はお腹もぺこぺこに空いているに違いない。

祖母が家で準備している温かいご飯とみそ汁と漬物が恋しくてたまらない。粗末な食事も天国の御馳走を味わうような気持であるにちがいない。そういった物語まで語り掛けてくる油彩画である。


和田英作は鹿児島県の垂水市で、1874年に生を受け、1878年、両親とともに上京した。1890年、原田直次郎の作品に感動し、1892年、原田の門下に入った。

1894年には、同じ鹿児島の先輩である黒田清輝の指導を受け、黒田らの「白馬会」のメンバーに加わった。

その後、和田は1899年、文部省から西洋画研究のため、3年間のフランス留学を命じられた。和田の師はラファエル・コランで、黒田清輝もまたこの人物から教えを受けた。

帰国後、旺盛な制作活動を続けた和田であるが、1932年には東京美術学校校長に就任、1936年にその職務を退いた。フランスでの師が同じコランであったため、黒田清輝と和田英作の画風には通じるところがあり、同郷の誼(よしみ)ということからも黒田の画風から大いに影響を受けた。

「和田君は形を確かに視ることと、佳い色を出すと云ふことが両者共に巧みである」と黒田清輝が評している通り、外光派に立つ写実主義を徹底しており、ほぼ全生涯に亘る画業をそこから逸れることなく過ごし、数多くの優れた作品を残した。

外光派は、日光に照らし出された自然の色彩を描写することを目指し、戸外で制作するスタイルをとるが、フランスのバルビゾン派などがその代表格である。

和田は、1951年、晩年の日々を静岡の清水で過ごすべく居を移し、清水の三保に構えた自宅で永眠(享年84歳)するまで、富士山の雄姿を描くことに全力を注いだ。

残された和田の多くの富士山の画を見ると、富士に魂を注いだ和田の生きざまの総決算が、心の髄まで日本人の魂を纏っていたことを物語っている。

和田英作は、自らの生涯を締めくくるべく、キャンバスにぶつけたその最後の対象の「富士山」とともに、あの世に旅立ったのである。


和田回顧談を見ると、和田英作は非常に多くの師友と交わり、交際の広い人であったことが分かるが、ほとんど尊称をもって人に接する人物ではなかった彼が、ただ一人、森鴎外に対してだけは「先生」と尊称を用いたのであった。鴎外の高い学識、教養、高邁な人格に対する畏敬の念を和田英作は抱いていた。

晩年、終の棲家として過ごした清水の三保に夫婦二人用の屋敷を立て、屋敷の奥側に隣接したアトリエは、北面に富士、南面に薔薇園を望む造りであったが、薔薇と富士をテーマとして、夫婦二人で過ごした晩年の日々は、円熟した夫婦愛のぬくもりの中で、富士を描き、薔薇を描くという至福の時間が流れていたことであろう。

和田英作という画家を見るとき、つくづくと洋画の技法で日本人の魂を描いた画家という感、すなわち、「日本の芸術的情緒は家庭に行き着く」という感慨に至るのである。

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