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シェイクスピア参上にて候第四章(ニ)


第四章 EUはどこへ、フランクフルトの状況を探る

(二)フランクフルトに降り立つシェイクスピア

萩野教授がインドに発たれる日、米倉アキ子さんとわたくしはヒースロー空港まで見送りに行きました。それからしばらく経ったある日、わたくしは、鶴矢先輩から支社長室へ呼び出されました。刻々と変化する欧州情勢について、情報が必要であり、多角的な分析が急がれるという認識が鶴矢先輩の脳裏を支配していたのです。

「才鶴ちゃんも、分かっていると思うが、欧州全体が混沌として来ている。英国はEUの一員でありながら、ポンド経済圏の誇りを持ち、ユーロ経済圏に巻き込まれることをよしとしていない。

いろいろ理由はあるが、結果はEU離脱だ。ドーバー海峡の溝は、思った以上に深く、広く、大陸と島嶼の関係は近いようで遠いということだ。

英国はどうなるかという問題と同時に、EUはどうなるかという問題が並列的に起きている状況である。」

「と言うことは、EUの経済のかなめを握っているドイツ当たりの情報が特に必要になりますね。フランスも、もちろん重要とは思いますが。」

「そういうこと。特に、ドイツの状況は正確に把握しておく必要があるね。そこで、わたしとクラーク・ヒューズでフランクフルトへ十日あまり行って、情報を掴んでおきたいと考えているところだ。

萩野先生の期待もあるし、ひとつ、米倉アキ子さんも今回、同行させようと思っている。明後日の出発にしたい。その期間、しっかりと、留守を頼むよ。」

「分かりました。留守の方は任せておいてください。ところで、フランクフルトでは、何か有意義な情報を提供してくれる人脈はあるのですか。」

「クラークを連れていく理由はそれだ。ベルリン大学で学んだ彼は、ドイツ語に堪能で、ドイツの友人が多い。

なかでも、フォルクスワーゲンで働いているクラウス・アーレントという友人がいいと言っている。それともう一人、ダミアン・ベッカーという友人がいるそうだが、ドイツ銀行で働いているというから、ちょうどいい。

企業人一人と金融マン一人、参考になる情報をいろいろ握っていると思うよ。それと、イギリスではあまり目にしないドイツ語のビジネス雑誌やEU関係の情報専門誌などにも、できるかぎり目を通して動向を探りたいと、クラークはすでにやる気満々だ。

ドイツ行きがよほどうれしいのか、十日間は短すぎる、一か月くらいはほしいな、などと言っているんだ。」

「米倉さんはどんな感じですか。喜んでいるでしょうね。」

「大喜びだよ。わが社に入って、初めての出張だからね。彼女はロンドンを出たことがないと、日頃からぼやいていたけど、萩野教授の助っ人効果が出たのか、もちろん、最終的には私が決断したことではあるが、とにかく、喜んでいるよ。」

「そうですか。よかったですね。帰りにパリなどに立ち寄ってくるというお考えはありませんか。」

「パリへの立ち寄りはないと思う。第一次大戦、第二次大戦、ドイツとフランスは敵対国家として二度もぶつかった。

結局、ヨーロッパの平和はドイツとフランスが戦わないこと、これが必須条件だとして、EUは、フランスとドイツの推進の努力が中心となって、出来上がったようなものだね。

特に、当初は、フランスのドゴールの押し出しが強く、歴代の大統領もそれに続き、そうやってEUが出来上がったが、一緒にやってみると、フランスの方が面白くないと感じることが多くなっているようだ。

EUに懐疑的で、移民問題でも排斥的な動きが強くなっているのがフランスだ。政治的にもそういう勢力が強まっている。」

明後日のチケットは、すでに三人分、山口ひばりさんに取ってもらったとのこと、ロンドンをルフトハンザで午前十時三十分発、フランクフルトに一時十分着のものにしたと、鶴矢先輩は申しました。ニ時間四十分かかる計算になりますが、時差の一時間を引くと、一時間四十分でフランクフルト到着となります。

鶴矢軟睦支社長、クラーク・ヒューズ、米倉アキ子さんの三人は、フランクフルトへと出発しました。

クラーク・ヒューズは、極めて創造的なセンスを持った人物で、束縛を嫌い、自由をこよなく愛するパイオニア型の人物と言ったらよいでしょうか。

ベルリン大学でドイツ語を習得していた時には、ドイツ文学にのめりこんでいたそうです。特に、ゲーテを知らずして、ドイツを知ったことにはならないというのが彼の信条です。

まさにそれは、シェイクスピアを知らないで、イギリスを知ることは不可能であるというのに等しく、ゲーテの詩劇「ファウスト」を片時も離さなかったという彼自身の言葉からも彼のゲーテ魂が窺い知られます。

ルフトハンザ機で、隣同士の座席に座ったクラークは興奮した様子で鶴矢先輩に語り掛けました。

「ツルヤさん、ドイツと聞くと血が騒ぎます。ドイツ語に取り組んでいたときのことが、思い出されます。

ロンドンで過ごした夏目漱石を研究しようと思って、日本の明治大学で四年間学び、それからベルリン大学へ入ったのが二十三歳でした。まるまる四年間ずつ、日本とベルリンで過ごしました。

現在、二十九歳になりましたので、つい三年前まで、わたしはベルリンにいたのです。ベルリン大学在学中、読み続けた新聞があります。「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング」は、とても有名なドイツを代表する新聞ですが、わたしはどうも読む気になりませんでした。

私が毎日のように読んだ新聞は「ディ・ヴェルト」という新聞です。もちろん、ゲーテはわたしの命、私の魂ですから、新聞以外に、この天才文豪への取り組みは絶対不可欠のものであり、わたしの学究生活の中心でした。」

「ほほー、すごいゲーテへの入れ込みだね。ゲーテは確かフランクフルトの生まれだったね。これからフランクフルトへ行くところだが。」

「そうです。フランクフルトはゲーテの街です。ゲーテ大学がありますが、四万人近くの学生を抱えるその数の規模から言えば、ドイツ一の大学です。ベルリン大学在籍時代、ゲーテを知るために何度フランクフルトに足を運んだことか。懐かしい街です。」

フランクフルト空港へ着くと、わが社のドイツ駐在員を務める里見龍之介さんが、三人を出迎えてくれました。ドイツにいても、日本産愛用の精神に固まっている里見さんは、トヨタクラウンを所有していましたが、三人を乗せると、宿泊のホテルへと向かいました。

「以前、ベアトリスさんから聞いた話ですが、クラークさんがベルリン大学でゲーテを学んだと聞きまして、ホテルの方はゲーテホテルを取っておきましたので、そちらに向かいます。

高級ホテルというわけではありませんが、まあまあのホテルで、とても清潔感のあるホテルです。アメリカ資本などの高級ホテルも、たくさんあるのですが、あまりそういうところにお金を使うこともないと思いますから、クラークさんのことを考えて、ゲーテに拘ってみました。

少し市街地から離れますけど、静かな環境で、いいところです。この期間は、三人のミッションを手助けするために車の運転を致します。ホテルのロケーションはもう一歩ですが、場所移動に関しては、私が運転しますから、何の不自由もありません。

どこへなりと、おっしゃって下されば、車を走らせますので、どうぞ、こき使ってください。アウトバーンを百五十キロで走る快感はたまりません。メルセデス・ベンツやBMWもいいですが、クラウンもいいですよ。」

ホテルの予約の方を頼む、と鶴矢さんからの依頼を受けていた里見さんが予約したホテルは、ゲーテホテルという名前でした。

明くる日、美味しい朝食をホテルで取ると、早速、猛烈な勢いで動き始めたクラークは、フォルクスワーゲンで働いているクラウス、ドイツ銀行で働いているダミアンと連絡を取り、里見さんの運転で、望むところへ飛んでいきました。

クラウスと会うために、彼が住んでいるニーダーザクセン州のハノーファー(ハノーバー)に向かいました。フランクフルトからは三百五十キロをやや超えるかなりの距離です。東京から仙台くらいまでの距離です。

列車で行ってもよいのですが、敢えてクラウンで飛ばしました。里見さんも少し刺激が欲しかったところ、三人がやってきたので、ドライブの遠出もしてみたいと思っていたのでした。

鶴矢先輩と米倉さんは、二日間ばかり、市内の主なところを観光することにしました。一日目は、ゲーテハウスとシュテーデル美術館を中心にフランクフルト市内の中心部を練り歩きました。

宿泊のホテルからタクシーでゲーテハウスへと向かいましたが、メルセデス・ベンツのタクシーです。ドイツのタクシーのほとんどがベンツであると、鶴矢先輩がメールで知らせてきました。ベンツが特別な感じがせず、普通の車のように感じられるドイツなのです。

鶴矢先輩のメールによれば、ゲーテハウスは四階建ての立派な建物ですが、第二次世界大戦の爆撃で焼失し、戦後、完全に復元再建されたものです。調度品は疎開地に移されていたので難を免れ、再建された建物に元通りに戻されました。

クラークはこのゲーテハウスに何度も足を運んだことでしょう。特定の偉大な個人に関する場所とか家屋、遺品などは、見る人によっては、さっと見て、簡単に素通りする程度の見方で済ませ、そんなに深い感動も印象もないという人もあるでしょう。

しかし、クラークの場合はドイツ語の習得とゲーテが一体となった大学時代を過ごしており、ゲーテに心酔していたので、四階建ての建物の一部屋一部屋が愛おしく感じられ、ゲーテがクラークに何事かを語りかけてきたのではないか、そんな気がします。

三階にあるゲーテの父ヨハン・カスパーの部屋にはたくさんの蔵書があり、この父親によってゲーテは幼いころから知的刺激を知らずのうちに受けざるを得ない環境にあったことが推測されます。

母エリザベートの部屋、それに妹のコルネーリアの部屋もそれぞれ三階にあり、また壁一面に絵画が掛かっている部屋もありました。母親の祖父はフランクフルトの市長を務めた人物で、名家と言ってよい家系です。

鶴矢先輩のメールから、わたくし自身、さまざまな想像の翼を羽ばたかせ、まるで一緒にゲーテハウスを見歩いているような気分です。

四階にはゲーテが著作に勤しんだ机と椅子が置かれた部屋がありました。愛用した机にはインクの跡がいっぱい付いており、今も、ゲーテがそこに座ってものを書いているような錯覚に襲われるほどです。

もし、ゲーテを真に愛する人であるならば、このインクで汚れたゲーテの机と椅子こそ、大文豪ゲーテの深い思索と豊かな想像の場であり、ゲーテがペンを走らせ、「若きウエルテルの悩み」や「ファウスト」を書き上げていった文豪の聖なる場所であったのだと、感嘆の思いでしばし釘付けになるところでしょう。

「ゲーテの家って、本当に立派な家ですわ。気を付けて、数えながら見て回ったけど、二十部屋くらいはあるので、ほんとにびっくりしちゃう。当時でも、きっとフランクフルトの指折りの名家に違いなかったと思うわ。」

米倉アキ子さんのこの言葉にうなずきながら、鶴矢先輩も感想を述べました。

「アキ子さんの言うように、フランクフルトの名家の一つから出た大文豪だということは確かだが、ゲーテの多彩な才能、文学、自然科学、政治など、あらゆる領域に奔流したあの才能は、一体、母親からのものか、父親からのものかと自問しながら見て回っていたのだが、どうも母親譲りの可能性を強く感じてしまったんだ。

父親のあの法律関係の蔵書がぎっしり詰まった部屋を見る限り、しっかりと現実に根を下ろした生き方を大切にされていると感じて、詩人、劇作家、小説家などの文学的情緒の方は母親譲りではなかったかと思ったんだ。この判断が正しいかどうかは分からないけどね。」

ゲーテハウスの見学を終えて、少し歩いて運動しようということで、マイン川により近い場所の、旧市街地の中心部であるレーマー広場へと向かいました。

ギザギザの切妻屋根が三棟並ぶ建物が特徴的で、真ん中の建物がレーマーと呼ばれる旧市庁舎です。レーマー広場は人が多く、周りにカフェやレストランがたくさんありますから、賑わいのある雰囲気が好きな人には格好の場所です。

二人はお腹も空いて、昼食のために、レーマー広場の「カフェ・イム・フランクフルター・クンストフェライン」(訳せば、フランクフルト芸術クラブカフェー)という看板の所へ入りました。

ポテトとビーフとサラダの取り合わせのおいしそうな料理を注文すると、あまり待たせないで運んできてくれました。歩いて腹ペコ状態だったせいか、非常に美味しくいただくことができました。

ドイツにもいろいろと多くのメニューがあるそうですが、やはり目立つのは、豚肉料理、ジャガイモ料理、ソーセージ類などはメニューの種類が多く、また、実際食べてみるとなかなか美味しい。

それにプラスしてワインやビールなどを喉に通すと、ドイツ的至福の完成となる、というのが鶴矢先輩のメール報告でした。

ゲーテハウス、レーマー広場のギザギザ屋根の建物、頼んだ食事メニューなど、スマートフォンに細かく画像を送ってくる鶴矢先輩ですので、すべては手に取るように分かり、一緒にフランクフルトにいるという錯覚すら覚えました。

誠に、鶴矢先輩は、権威ぶったところもなく(少しぐらいはあってもよいと思いますが)、友達感覚で、一生懸命に、画像付きの文章で報告を入れてくるので、有難いのは当然でありますが、こちらが逆に恐縮してしまうほどです。

二人はランチを済ませて、まっすぐマイン川の方へ歩きました。マインカイ(マイン川沿いの道路、遊歩道)に出ると、右に折れて進み、しばらくしてウンターマイン橋が架かっているところで、橋を渡ります。

渡ったところでまたマインカイ沿いに右へ進み、まもなくしてシュテーデル美術館に到着します。ここに展示してある作品をこれからゆっくり鑑賞します。

鶴矢先輩は、絵画に対する興味が非常に深いので、どこに行っても美術館を見落とすことがありません。パリのルーヴル美術館のような膨大な作品展示を見るのに慣れた人は、規模的な面から言うと、シュテーデル美術館は物足りない感じがするでしょう。

しかし、鶴矢先輩の観点は違います。ルーヴルほどでもない美術館にもきらりと光るものが展示されていることがある。美術作品を心底、愛する人でなければ分からない美術館巡りの秘術と言えます。

さて、そこで見た作品は何であったのか。二人は、一時間四十分ほどで一回りしましたが、ここの美術館は質の高い作品が多いことが分かりました。ルネサンス期から現代にいたるまで、味わい深い作品が展示されています。

鶴矢先輩は日頃からフェルメールについて話すことが多く、この時も、何か展示されているだろうかと期待しつつ画廊を巡っていると、一点、フェルメールの作品に出合う僥倖に恵まれました。「地理学者」という作品です。

「地理学者」はここにあったのかという感懐にしばし耽りつつ、しばらく立ち尽くして注意深く鑑賞しています。満足したようです。他にも、いろいろ優れた作品が目白押しでした。歩き疲れたので、館内の感じの良い静かなカフェで一休みすることにしました。

「アキ子さんは何か気に入ったものがあったかな。わたしはフェルメールに出会って正直、嬉しかったよ。フェルメールの画は、大抵、キャンバスに人物を置いて、窓越しに外から入り込んでくる光が人物に当たるその光が作り出す陰影を巧みに描き出した画家で、有名なものは、アキ子さんも知っていると思うが、「真珠の耳飾りの少女」だね。

「地理学者」の場合、人物に当たった光の効果をどう描くかということもそうだが、壁や床にまで届いた光を細やかに描き出すことにも神経が注がれている。

光と人物、光と物体、部屋に入ってくる光を全部計算して、それらが織りなすリアリティを描き上げるというのは、十七世紀という時代の枠を超えた普遍性をもって迫ってくるのだ。」

「鶴矢支社長、すごいわ。そういう風に細かく鑑賞していらっしゃるのね。あたしは、高校時代、大学時代、英会話部にいたので、芸術にそんなに詳しくないけど、「真珠の耳飾りの少女」は知っているわ。あの少女はほんとにキュートね。少女の取っているあのポーズがいいわ。

あたしが女性だからというのではないけど、ここで興味を持った作品はボッティチェリの「女性理想像」よ。真珠を織り込んだ髪飾りや首飾りのゴージャスさに驚いたわ。ルネサンスのイタリアでは、ああいう感じの女性がひとつの理想像だったのかしら。」

「彼女はフィレンツェで有名なシモネッタという女性で、美しいことで知られていたそうだ。アキ子さんも美しいから、フィレンツェの女性に嫉妬しなくてもいいよ。」

「鶴矢支社長が、そんな冗談を言うなんて、知りませんでした。」

「ははは、冗談じゃなくて、本当のことを言ったのだが、そんなに悪かったかな。私は結婚しているから何だが、アキ子さんの旦那になる人は幸せだと思うよ。」

こうして観光の一日目は終わりましたが、二日目は「パルメンガルテン」と「聖バルトロメウス大聖堂」を観光しました。

パルメンガルテンは巨大な敷地面積を誇るヨーロッパでも屈指の植物園ですが、総面積二十二ヘクタールというのは、東京ドームの四.七ヘクタールと比較すれば、およそ四倍強の面積ですから、その大きさが分かります。

特徴的なのは、ガラス張りの十四棟の温室があり、その内部は、世界各地の自然環境をそのまま再現して、そこの場所の植生を忠実に再現しているということです。

モンスーン地帯の森林、熱帯雨林、乾燥した砂漠など、見て歩くうちに、地球の自然と植物生態系のすべてを満喫した気分になり、非常にゆったりとした気持ちになって、癒される所です。

家族連れが多く、まさに都会のオアシスです。自然や草花、植物を愛する人にとって、パルメンガルテン(「ドイツ語で「ヤシの庭園」の意)は必ず訪れなくてはならない場所であると、鶴矢先輩はメールで強調しています。

鶴矢先輩と米倉さんが、白鳥の泳いでいる池の脇にあるベンチに腰を下ろし、休憩していると、米倉さんが立ち上がり、もう少し一人で散策してきますと言って、ベンチを去りました。

若い人は元気だな。五十歳近くになった自分がやや疲れ気味であるのに、彼女はあんなに元気で羨ましい気もするなどと思っているうちに、いつしか急に、眠気が襲ってきて、ベンチで浅い眠りに陥ったようです。

何だか隣に誰かが座ったような気配がして、目を開きました。確かに、左手の方に、その距離一メートル足らずのところに人が座っています。にっこりと笑顔で、こちらを向いて語りかけてきました。

「お疲れになりましたか、鶴矢さん。広いですからね、ここは。フランクフルトでは、ここが一番、寛げる場所で、わたしもここによく来るのです。

と言いましても、あちらの世界からですけど。フランクフルトを訪れる理由は一つ、ゲーテさんの故郷であるからです。私は文豪シェイクスピアと呼ばれていますが、ドイツでは、文豪ゲーテです。」

語りかけてきた左隣の人物は、こちらではなくあちらの人、シェイクスピア様であることが分かって、鶴矢先輩はただただびっくりしました。そうは言いましても、いつか自分にも、近松才鶴君に現れたように現れてくれるに違いないと期待に胸を膨らませていたわけですから、驚きはすぐに喜びに変わりました。まさか、このフランクフルトでとは。

「お会いできてうれしく思います。鶴矢軟睦と申します。いろいろと近松君からシェイクスピア様のことはお聞きしております。わたしごとで恐縮ですが、幼少より、あちらの世界とは縁が深く、わたしにとりましては、不思議が不思議ではなく、当たり前の人生を送ってまいりました。ただし、人に語るわけにもいかず、自分自身の自覚と認識の中にあちらのことは封じ込めてまいりました。」

「すべて分かっています。鶴矢さんがそういう人だからこそ、近松才鶴さんをあなたのもとへ送ったのです。彼のロンドン赴任は決して偶然ではなく、わたしが誘導した必然なのです。

あなたのことを知り、近松さんのことを知って、二人を出合わせるようにしたのです。ロンドンと幽霊を結びつける人は少なくありませんが、霊の街、ロンドンが、鶴矢、近松の両人の宿命的出会いには最もふさわしいものでした。」

「そうですか。深い洞察と配慮ですね。お尋ねしますが、シェイクスピア様とゲーテ様の間には、何か繋がりがあるのでしょうか。

十六世紀末から十七世紀初頭にかけて活躍されたシェイクスピア様と、十八世紀から十九世紀にかけて活躍されたゲーテ様の間には、同時代人としての交流はなく、ニ世紀ほどの間隔があるのですが、それぞれが独自に大文豪へと上り詰めていかれたということでしょうか。」

「わたしはイギリス人で、ゲーテ様はドイツ人という違いはもちろん基本的にありますが、ゲーテ様はわたしの作品によく目を通されました。ゲーテ様は英語も堪能でいらっしゃいました。

ストラスブール大学で学んでいたゲーテ様に大きな影響を与えたのが「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)運動」の推進役の一人であったヘルダーという人です。

ヘルダーはカント哲学の影響下で彼自身の哲学を開いていく人物ですが、そのヘルダーがシェイクスピア文学の価値を強調して、ゲーテ様をわたしの作品世界へと導かれました。

その後、ゲーテ様は、ご存知のように、多彩な才能をお持ちであられるため、若干、三十三歳でヴァイマル公国の宰相をお勤めになり、ヴァイマル劇場の総監督まで指揮なさいました。

ヴァイマル劇場では、わたしの戯曲を上演してくださり、文教政策に大いに努められました。わたしは、ゲーテ様のご尽力に深く感謝しております。」

「そういうことは、今、はじめて知りました。深い関わりがあったのですね。ゲーテの街フランクフルトのパルメンガルテンへ、あちらから降りていらっしゃるシェイクスピア様のお気持ちが分かるような気が致します。」

「お休みのところ、お邪魔をしたようですが、米倉アキ子さんがそろそろ戻ってくるようですので、この辺で消えることに致します。それでは、またお会いしましょう。」

こう言って、忽然とシェイクスピア様はあちらの方へお戻りになりました。我に返って周りを見渡すと、園内には鳥もたくさんいて、池の中を優雅に泳いだり、噴水の脇で休んだりしています。

米倉さんと歩いていると、羽を広げたクジャクに会えたのには、鶴矢先輩もびっくりしましたが、小さな子供がクジャクの所へ寄って、パンをあげると、それを食べているクジャクの様子を見て、人に慣れているのだなあと思いました。

こういった画像(ときに動画を含めて)を鶴矢先輩はわたくしのスマートフォンに一杯送って下さいます。

米倉さんには、先ほどの出来事は一切語らずに、若い人は元気でいいね、などという言葉を投げかけてパルメンガルテンを出ました。二時間半の散策を終え、レストランで昼食を取ろうと思っていると、パルメンガルテンの近くに「リストランテ・イゾレッタ」(イタリア語で「レストラン・小さな島」の意)というイタリア料理の店が見つかり、パスタを注文して、美味しくいただきました。

午後は、昨日のレーマー広場へ戻り、フランクフルトの全景を見渡すほどの高さで聳え立つ「聖バルトロメウス大聖堂」の見学です。

戦後、モダンな高層ビルが次々に立ち並ぶようになってから、必ずしも大聖堂だけが目立つというわけでもなくなったフランクフルトの街ですが、昔は、圧倒的な高さで街全体を睥睨し、その存在感を放っていたと思われます。

尖塔まで九十五メートルの高さがありますが、三百二十八段の階段を上る気力があれば、尖塔に至ることができます。

この大聖堂は、歴史の重みを背負っています。一三五六年以降、ここでドイツ皇帝が選定されました。一五六二年から一七九二年においては、神聖ローマ帝国の皇帝が戴冠式を行った場所になり、礼拝堂には七人の選帝侯が集まって、新しい皇帝を選出したので、歴史的な重みを背負った場所になったのです。

まっすぐ天に伸びていくゴシック様式の大聖堂は、人の心を神の世界へと導くのでしょう。その神聖な権威を借りなければ、地上の皇帝は政治を執る資格を賦与されなかったと考えてみてはどうでしょうか。

スマートフォンに入ってくる大聖堂の美しい画像を見ながら、そんな思いに駆られます。

三百二十八段の階段を登るかどうか、鶴矢先輩が米倉さんに聞いてみると、当然登るべきだわ、とアグレッシブな答えが返ってきたので、登ることにしました。

三百二十八段を登ってみると、まだか、まだかという感じで、やっと頂上へ着いたとき、そこからの一面のフランクフルトの街の眺望を目にして、二人は喜びと感動に満たされました。

マイン川の流れと架かっている橋がよく見えます。古い建物と新しい現代建築が混在するフランクフルトの市街地の全容を一目瞭然に把握できます。この景観に接するとき、大聖堂よ、有難う、という気持ちになります。こうして二日目の観光を終え、ホテルへ戻りました。

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