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「恩返し」をやめた話

私は基本的に義理堅い。関係性が長く続く人も多く、そのほとんどの人に恩があり、私はかねがね「この人たちに恩返しをするために頑張らなくては」と自分のケツを叩いてきた。応援してくれたあの人やあの人やあの人の期待に応えなきゃ、いつか喜ばせてあげなきゃ、と思う気持ちはもはや強迫観念に近いものがあった。


で、今。それをやめてみることにした。


何故かというと、今私の周りにいる大好きな人たちは、「私に何かをもらえるという期待」から私を好きなのではなく、元気に楽しく生きてる私の生命体そのものへの愛で側にいてくれてるという事実に、やっとこさ、やっとこさ気づいたから。


これに気づけなかった理由は、「私は私のまんまでは価値がない、付加価値を頑張ってつけないと愛されない」という強い思い込みと卑屈さ由縁。遡るとやはり不登校時代のいじめられたり大多数に受け入れてもらえなかった体験が相当根深かったように思う。あとは20代のこじらせた恋愛。


でも今の私は不登校の時の私でも20代のぐちゃぐちゃな恋愛をしている私でもなく、愛する家族や友達や仲間や先輩に後輩と、「こんなに素敵な人たちと仲良しなんて夢みたい!」と思うくらいに好きな人たちに囲まれてのびのび生きている。


それだからこそ、「この好きな人たちにもっと良いことをあげたい、幸せなきもちにさせたい、私といて得したと思ってほしい、むしろそれが無ければいつか私を嫌いになってしまうかも」という気持ちが抑えきれなかったのだけど、その考え方がどれだけ相手に失礼なことか本当に私は分かってなかった。


逆の立場で考えたとき、私は好きな人たちが私に得があるから好きなわけじゃない。その人たちがその人たちの人生を自分で創造し、変化し続けていくその全てが愛おしいし魅力的で、どんな状態の時も大好きだと思える。


それなのになぜ、人が自分にもそう思ってるかもしれないと思えなかったのだろう。


面と向かって「恩返し期待してます!」と言う人は居ないので、これは仮説なのだけど、おそらく今私が「恩返ししたい」と思う人の中に、「つるうちはなから恩返しをされることを待ってる」人は、マジで一人も居ない。そんな暇があったら自分で欲しいものを掴みにいく人たちばかりだし、そもそも何かを期待して人に良くするような人たちがいない。


私ができることは、私がカッコいいと思う自分を生きること。それこそが最大の恩返しなのかもしれないし、それを恩返しだと思う必要もないと思う。


「恩返しのために」「恩返しをしなきゃ」は日本人が好む分かりやすい奉仕の形だ。思っている本人も大義名分が出来るし、言われて嫌な気持ちになる人もそれほどいないはずだし、なんなら「俺はこれだけしてやったのだからお前もこれだけ返せ」と強迫観念で支配するタイプの人もいる。


でも、だからこそ、私はこれからの人生で、「恩返ししたい」はもう言わないことにしようと思った。その時の自分では到底お返しできないと感じるものをもらったときは、「ありがとうございます!」それだけでいい。そしてその糧を自分の人生のためにどう使うかは私の問題であり、私が私のために選択する。それが回り回って誰かの幸せに繋がったりする。そう信じられるような人間関係が気づけば私の人生に築かれていた。


もし、万が一、あなたの周りに「恩返しを期待する人」がいたら、その人たちとは距離を置いてもいいと思う。「あなたのためにしたのに」と言う人は、自分の都合に合わなくなると「あなたのせいでこうなった」と言うから。これは私の中にもあった感情で、向き合うのに大変苦労したけど、苦労した甲斐があったと思っている。愛する人には自由な魂で居てほしい。自分への恩なんかに縛られてほしくない。今は心からそう思う。


とはいえ、「つるの恩返し」という名称が大変使いやすい芸名なので、ツアーとかで使いたかった気持ちにはまだ少し未練があるんだけどね。


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