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細江慎治氏インタビュー再録(第2回)

*細江慎治
株式会社スーパースィープ 代表取締役音屋
ナムコにおいて「ドラゴンスピリット」(1987)を皮切りに、「リッジレーサー」シリーズなどの、時代を代表する様々なゲームミュージックを作曲する。ナムコを退社後、アリカを経て、スーパースィープを設立。様々なゲームに楽曲を提供するとともに、スィープレコードからCDをリリースするなど、精力的な活動を続けている。

サウンドのお仕事は「放置プレイ」?


鶴見:さてさて前回までのあらすじをカンタンに説明しますと…下呂に生まれ、家に「鉱石」があったために理系の道を選んでしまった細江少年は、鉱石の不思議な力に導かれ(?)、アルバイトとしてナムコに入り、ドラゴンスピリットのサウンドを「勝手に作っちゃった」結果、社員としてサウンドに配属されましたが…。

細江:…その後も、しばらく放置プレイ(笑)。サウンドは皆んな忙しいから、教えてもらうこともなかった。

鶴見:当時のサウンドチーム3人の内、中潟(憲雄)さんは「源平プロ」に専念していたから、残りは2人…絶対的な人数が少なかったんですかね。その中で4人目のメンバーとして、どんな仕事を与えられたんですか?

細江:川田(宏行)さんと小沢(純子)さんがやってないのは、全部(笑)。
「システム2」(ナムコの業務用システム基板)の立ち上げの頃は、ほとんどのタイトルをやった。システム2のボードを作ってた頃、他の2人は別の事をやってて。だから、あの時出たタイトルは、1年間分ぐらい、自分がやった。やるしか無かった。'88年・'89年が、いちばん濃いよ、自分の中で。

鶴見:システム2のほとんどのタイトルを、なんらかの形でをやらされた、と。確かに、「めがてん細江」という名前は、「アサルト」「オーダイン」といった、システム2のゲーム音楽によって轟いた感がありますもんね。
あれ、その他に出世作と云われている「ファイナルラップ」はシステム2ではないですね。

細江:サウンドのハードは同じで、(サウンド)ドライバーとかも比較的近かったから、やることになった。ただ、ツールが無かったんでね、すごく辛かった…。

鶴見:ツールが無かったんなら、生産性が相当低かったんでは? というかそもそも、よくもまあ経験が少ないのに曲が作れましたよね。

細江:生産性は低い! 酷かったねえ。曲が最初からあったとしても、打ち込むだけで、1日じゃ終わらない。まあでも、やり始めって楽しいから、いくらでも出来ちゃうじゃない。自分内ライブラリも溜まっていって…ノウハウも溜まって…。

鶴見:忙しさも、徐々にラクになっていったワケですね。やっぱり、忙しい時は会社に泊まってたりしたんですか?

細江:いや、結構そこそこ帰っていたかな。今の方が忙しい。よく考えると、昔の方がヒマだった。そんなに頑張ってなかった(笑)。

鶴見:「頑張ってなかった」というと人聞きが悪いですよ。ツールが貧弱だった分、自分の中にある物が出し切れなかった、ということにしませんか?(笑)

細江:そうそう(笑)。

鶴見:曲は、どんなところから生まれたんですか? というか、プロジェクト内でサウンドを作る時は、どんな形でオーダーされたんですか? 企画担当者が、曲調や曲想、ジャンルなんかを細かく指定してきたりとか?

細江:当時は、(そういうオーダーは)無い。たぶん他の人もそうだったと思うんだけど、ほぼサウンドの人が「良し」と思えば、そのままいっちゃってた。誰もNGを出さない。NGを出すのは自分ぐらい。

鶴見:企画書を見て、サウンドが独自に判断していたという事ですか?

細江:というか、横に絵を描いてる人がいるから。いくらでもゲームの情報は入ってくる。
よくあるのは、テスト段階…試作で動かしている時に「寂しいから何か入れて」って仮に入れた曲が、「これでいいんじゃない」って認められるパターン。

鶴見:なるほど、まず企画書ありきではなく、まず試作ありき、という事ですかね。
あれ、でもそれだと、昔のビクターのCDに入っていたような「ボツ曲」は生まれないような気はしますけど?

細江:それは「自分ボツ」。他のゲームには、波形の構成が違うから入れられなかった。

鶴見:なるほど、CDだけの「ボーナストラック」ですね(笑)。

初めての、魅惑の「スタジオ仕事」


鶴見:CDと云えば、当時ナムコのゲーム音楽は、すぐにCD化もされていましたよね。

細江:妖怪道中記とかがアルファから出て、その後にビクターからドラスピが出て。

#サイトロン盤
#「ナムコ・ゲーム・ミュージックVOL.1」「ナムコ・ゲーム・ミュージックVOL.2」

#ビクター盤
#「ナムコ・ビデオゲーム・グラフィティVOL.2」

鶴見:ドラスピ、ファイナルラップに続いて、クエスターがあって、アサルトがあって、オーダイン、メタルホーク…。細江曲が、むちゃむちゃな勢いでCD化されてますよね。CD化される場合、どういう形で関わってたんですか?

細江:音は、基板の音だからね。アレンジも、外の人──米光さんとかがやってくれていたから(自分がやる)追加作業も無かった。基本的には、スタジオへ聴きに行ったりトラックダウンを見に行ったりとかの「監修」で、丸1日。面白かったね。初めての経験だしね。

鶴見:それは、どこでやっていたんですか?

細江:場所は、千駄ヶ谷のビクタースタジオ。窓のない、箱のようなバカでっかいスタジオの中で、小っちゃい基板の音をちまちま録って(笑)。録った音を「これOKですか?」「はいOK」って(笑)。

鶴見:ちょっと、当時を思い出して、云ってもらえません?

細江:「はいオッケー!」

鶴見:はいOKです(笑)。

細江:エンジニアの作業が興味津々で、そこから見て覚えたものがかなりある。色んなエンジニアがいて、やり方も色々あるんだな、と。

鶴見:なるほど、ミキサー卓を見て「この中に『鉱石』が入っていて、針の当て方で音が変わるんだな」みたいな?(笑)

細江:(笑)。こんなにツマミとボタンが一杯あるなんて、夢のようなマシンだ!って(笑)。フェーダー(=スライド式ツマミ)もオートメーションで自動的に動くし。電飾も一杯あるしねー。電飾に弱いもの!

鶴見:電子工作好き・音楽好きだったら、もうたまらないですねホントに。

細江:ホントに楽しかった。「あ、こういう風に作るんだ」って、その当時の(ビクターの)エンジニアさんの「音」で育てられた面もある。自分の今の音の作りも、そこから吸収した物があったりする。

鶴見:後の…今の本業につながる、勉強をさせてもらったんですね。

細江:本業で(ゲームの音作りで)スタジオ作業をするのは、もっと後…「ギャラクシアン3」ぐらいからだけどね。

「音楽の人」には出来ない? ギャラクシアン3


鶴見:「ギャラクシアン3」! 大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」(1990年)に設置された、28人同時プレイのシューティングですよね。その頃になると、昔とは違ってサウンドのメンバーも増えていたはずですが、なぜ細江さんが担当する事になったのか? その経緯を聞かせてください。

細江:担当も何も、他に(担当者の)選択肢がいなかった。サウンドのメンバーが増えたといっても、新しく増えたのは「音楽の人」だからね皆んな。

鶴見:音楽以外の何が必要だったんですか?

細江:試作の時に、「専用のハードウェアが出来ました」と、設計図とメモリーマップと基板を持って来られて、「3日後に音が出るように!」って。まさか、回路図を読むところからやらされるとは思わなかった(笑)。

鶴見:それ「音楽」じゃないし(笑)。

細江:サウンドボードのCPUが新しく68000(=モトローラのチップ)に変わって。「6マン8センってナンデスカ?」。なのに、(サウンド)ドライバーも、アセンブラで「作れ!」と(笑)。

鶴見:確かにそれは、家に鉱石があった人じゃないと無理だ(笑)。CPUも「石」ですからね。まあ68000は、それまでサウンド用に使われていた6809チップを拡張したような物ですから、出来ると見込まれたんでしょう。

細江:仕方ないから68000の本を買ってきてやってたけど…出ないのよ音が。動かないの。追求していったら、基板のパターンが間違ってて、アドレス(線)が1個ズレて「つながってねえじゃん」(笑)。結局自分で、超音波カッターで基板のパターンを切ってつなぎ直した。

鶴見:音を出す以前に、罠が満載だったと。まさか、3日間でハードをデバッグして、68000のアセンブラでドライバーを書いて、曲まで作らされた!?

細江:いや試作段階は、効果音だけ出ればよかったから、曲は要らなかった(笑)。

鶴見:でも、3日で何とか音を出したワケですね。よかったよかった。──その後は順調だったんですか? たしか、頻繁に大阪へ出張してましたよね?

細江:途中まではシステム丸ごとが未来研(ナムコ横浜未来研究所)の中にあったけど、大阪に持ってっちゃって。本チャンのシステムは1個しかないからね。手元にも(開発機材は)あるけど、やっぱり実装してみないと確認出来ないから。

鶴見:有名な話ですよね、未来研の吹き抜けスペースに、モニターを16台並べた試作システムを構築してから、花博の本番システムが作られたというのは。じゃあ、問題があったら「細江じゃなきゃ解らないから、呼べ!」と、大阪に呼ばれたワケですね?

細江:そう、サウンド周りで何かあったら、全部自分の問題(笑)。(ギャラクシアン3だけは)珍しく、それだけどっぷりやれた。

鶴見:さてギャラクシアン3では、念願の「スタジオ作業」も本格的にあったワケですよね? 楽曲制作だけじゃなく、ナレーション録りもバンバンあったり…役者さんを選んでオーディションして、台本を読んでもらって、切り出してMA(=映像に合わせて音声を編集)して…。

細江:うん、全部やってた。台本は…完全な原稿をちゃんともらったってのは、あんまりなかったね。企画の人と一緒に「ああしよう、こうしよう」と。

鶴見:なるほど、企画の人と一緒にやったからこそ、あの有名な、ゲーム中には出てこないシステム音声「Mainboard... Check」「Submission... Check.」とかの、客の耳に触れないけれどカッコイイ音声を録ろうという話にもなったんですね。
ところで、オーケストラ風のスペイシーな楽曲は、スタジオで録った…?

細江:…ではない。ナムコ時代は、スタジオで音は録ってない。ナレ(ーション)だけ。ナレも、ちゃんとスタジオで録ったのはギャラクシアン3が最初だと思う。

リッジプロジェクトをダンスミュージックで塗りつぶせ!


細江:ギャラクシアン3では、相棒として佐宗(綾子)さんが入ってましたよね。

細江:自分が(曲以外の仕事も)どっぷりやるため。忙しくなることを見越して(佐宗さんを担当として)アサインしたのも自分。しかも、佐宗さんの入社前に(笑)。

鶴見:その後も、当時の若手と組んで、残る仕事を沢山していますよね。その最たる物が「リッジレーサー」…何人ものサウンド担当が作曲してます。あれは、上司としての細江さんが、若手の良い曲書く人間を「手伝ってくれ?」と呼んだワケですか?

細江:リッジは…あれも新しいボードのデバッグからやってて…。

鶴見:またかデバッグ(笑)。たしか、テクスチュア付きCGボード「システム22」の、初っ端のゲームでしたね。

細江:で、例によって時間が無かったんで、間に合いそうな人間を3人、見つくろって(笑)。

鶴見:なるほど解った! ギャラクシアン3の時もそうだったけど、細江慎治は「面倒くさいシステム担当」なんだ! 曲を作るだけの…「音楽の人」じゃ出来ないような、プログラムやらハードやら、そういう難題が持ち込まれて、その場合は曲を書く手が足りなくなるから、若手を登用する、と。

細江:うんうん。

鶴見:役割的には、音楽プロデューサーですね。じゃあ、大まかな曲調とかは自分で決めて指示したり…?

細江:というか…「洗脳」?(笑)

(一同爆笑)

細江:リッジのプロジェクトは、自分やプログラマの人やデザイン担当のささっきー(=佐々木建仁)がダンスミュージック好きだったんで、皆んなで結託して、全員をダンス音楽好きにさせようと…。

鶴見:…洗脳?

細江:…洗脳!(笑)

鶴見:どういう風に洗脳しましたか?

細江:作っているチームの人たちは、CDレベルで洗脳して…さすがに、いきなり「クラブへ行く!」って云っても、来ないから(笑)。

鶴見:確かに、当時の友達連中皆んなでクラブ遊びしていたのって、リッジをやってる最中でしたよね。確か、夜中1時スタートぐらいで都内に出かけて…。

細江:朝まで遊んで、そのまま仕事に行くって…あったよね(笑)。体力あったんだよね(笑)。
そういえば、その頃はまだ佐野(信義=佐野電磁)もダンスミュージックとか全然興味無くて…。

鶴見:嘘ッ!? すげえ意外! さのでじーは、その頃はまだ「sanodg」じゃなかった?

細江:リッジで染まった…というか染めた(笑)。その頃は佐野電磁でもsanodg(さのでじー)でもない、ただの「佐野」だったのを、染めた(笑)。

鶴見:うわぁ、ここ20年でいちばんの驚き(笑)。

「何故ダンスミュージック?」そのキッカケは


鶴見:そもそも、なんで「ダンスミュージック」をフィーチャーしたワケですか?
レースゲームのBGMって、ある意味「時代を代表する旬のモノ」じゃないですか。リッジの一世代前だと、F1でお馴染み「Truth」(T-Square)=ウィンドシンセばりばりのフュージョン。その前は、フュージョンでも「アウトラン」。そういった曲が時代を代表するレースゲームのBGMだった。でも、リッジレーサーの頃になると、Truth風・アウトラン風のフュージョンを流してたレースゲームって誰もが「古くさい」と思い始めていて…。

細江:リッジレーサーも、最初にAMショーで発表した時は、フュージョンを入れてた。けどそれは、最終的には1曲しか残らなかった(残さなかった)。それ以外は全部、ダンス系。

鶴見:そのあたり、当時セガのアーケード部署にいた自分らは、「ああ慧眼だなあ」とえらく感心した覚えがありますよ。それはどこから持ってきたんですか?

細江:そもそもは、リッジの前に「F/A」のプロジェクトで、曲をどうしようと考えていた時に、川野(忠仁=ツェナワークス代表)君から、「ものすごい音楽があるから聴いてみな」って、ものすごく濃いデステクノのCDをもらって…「なんだこれ! この曲でもないようなものはっ!?」って最初は思ったの。

鶴見:ちょwwwデステクノwww川野ちゃんナニ薦めてんのwwwww

細江:それがね、3回ぐらい聴いたら、だんだん気持ちよくなってきて(笑)。「これはイイ!」と(笑)。けったいな音楽の世界に、どっぷりハマった。

鶴見:アングラなクラブっぽさが、ただよってますよね。頭の振りすぎで目がイッちゃってる系の(笑)。それを、ぢょんたん(相原隆行)と一緒にやった、と。──あの曲調、かなり冒険じゃありませんでした?

細江:CDは売れた(笑)。

鶴見:ゲーム自体を設置してるゲーセンは少なかったけど、CDは皆んな持ってましたもんね。もちろん私も。

細江:あれは当時のNA-1基板で、小っちゃい容量でいちばん効率のいい曲でもあった。

鶴見:容量は小さいけれどゲームミュージック界に与えた影響は大きかった…って、ちょっと上手いこと云ってみました(笑)。

細江:で、F/Aは場末のクラブだったけど、リッジは「ジュリアナ」。マニアックだったF/Aを、リッジではカジュアルにした。

鶴見:当時の流行の中でも、ばりばりメジャー感が漂ってますね。

細江:リッジの曲は、ジュリアナのコンピレーション(アルバム)なんかとかぶるところも多い。プロディジー(=The Prodigy:イギリスのテクノバンド)だって、ジュリアナに来てたしねえ。

鶴見:ジュリアナの最終日に出演したプロディジーが、翌日は西麻布イエローに出てたりとかありましたっけね。…あれ、逆だったかな? ダンスミュージックの潮流は、確かにありましたね。

細江:実はリッジは、音楽性を決めるにあたって、社内でアンケートを採ったりした。「どういう音楽が合いますか?」って。

鶴見:「どういう音楽がiM@Sか」?

細江:「アイマスか?」と(笑)。そしたら演歌とか好き勝手なことを皆んな書いてきて…まあ結局、アンケートは来たけど無視(笑)。

鶴見:時代の「旬」が必要とされるBGMだから、後追いの意見はあえて無視した、という感じですかね。

細江:本当のところは、少人数のプロジェクトだったから、ある程度出来るまでは放置されてたんで、勝手に作ってたと(笑)。

鶴見:また放置か!(笑) 細江慎治の好きなプレイは「放置プレイ」だと、「ゲーム業界人性癖リスト」に載せておきましょうか(笑)。

細江:ないない(笑)。


次回は、細江さんがナムコ内にいながら、活動のフィールドを徐々にナムコからはみ出させるようになっていった…そんなお話になります。お楽しみに!

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