Twitter 嫌なら見るなに 物申す

こんにちは、鶴見です。

突然ですが皆さん、Twitterやっていらっしゃいますでしょうか?

鶴見はnoteの記事の宣伝や動画の宣伝にTwitterを利用しているのですが、そのなかで、以下のような論争を目にすることがあります。

[センシティブな内容の文章や写真]

「こんなもの俺のタイムラインに流すな!」

「嫌なら見るな!」

今日ではエログロ何でもござれのTwitter。皆様は他人を不快にする可能性のあるツイートをする人と、不快なツイートを見る人のどちらに非があると考えますか?

一概にどちらが悪いとは決めがたいでしょうから、一つ一つ追って確認してみましょう。

まず、「嫌なら見るな」について、嫌なものを見た人は①勝手に流れてきたものが目に入ってしまった人、②自ら進んで見た人の二種類に分類できると思います。

①に関しては、完全に不意打ちだったわけで、「嫌なら見るな」は通用しません。問題は②です。自ら進んで見た人は、おそらく、Twitter上にそのようなコンテンツがあることを知ったうえで自ら検索などをして、それらを見て、場合によっては悪口などを言うわけです。

このような②に対しては、「嫌なら見るな」が通用するようにも思えます。しかしながら、一度認識してしまった嫌なものや気持ち悪いものを無視し続けることは非常に困難でもあります。

カリギュラ効果を御存知でしょうか?禁止されるほどやりたくなるというあの心理現象のことです。嫌い、気持ち悪いを禁止と同列に考えてよいかについては検討が必要ですが、ゴキブリなどを見つけたときに気持ち悪いから殺す、あるいは捕まえる人が多いことからも、基本的に人間は、気持ち悪い者や嫌いなものを排除する生き物だと考えられます。また、それは、「嫌なら見るな」が通用するものでもなく、「ゴキブリが部屋にいるかもしれない」と思えば、いなくなるまで探し回り、見つければ排除しようと躍起になりますよね。このように、嫌いなもの、気持ち悪いものの存在を認識すれば、それが絶滅するまで探し回り、排除したがるのが人間の性なのかもしれません。

お化け屋敷なんかもそうですよね。怖いし嫌い、でも入ってしまう。それは好奇心や探求心かもしれませんが、兎に角、人間は嫌いなものでも確認して、場合によっては攻撃して殲滅したい生き物なのです。

この前提の下、「嫌なら見るな」を考えると、人間の本質を著しく制限する発言と言え、理不尽です。

とはいえ、自分の気分が害されたからと言って、それらのツイートに対し悪口を言ったり、ツイ主の人格を否定したりすることは別問題です。

そもそも、「こんなもの俺のタイムラインに流すな」と主張していた、つまり、他人の気分を害することを悪としていた人が他人の悪口を言うことは、自己矛盾を孕んでおり、特大ブーメラン乙です。

以上をまとめると、「嫌なら見るな」論者には、嫌なものを見たくなる心裡を押し殺すことと嫌なものを見ることの心理的負担を天秤にかけて欲しいです。一方で、嫌なものを見た人は、それに対し誹謗中傷を行うことが自己矛盾を孕んでいないか今一度考えて欲しいです。

冒頭の質問に戻りましょう。他人を不快にする可能性のあるツイートをする人と、不快なツイートを見る人のどちらに非があると考えますか?

万人が不快にならないようなツイートをするのは極めて困難だと思います。しからば、極力誰かの不快琴線に触れないかを吟味することは前提として、それでも誰かを傷つけてしまったときには、誠心誠意の謝罪、誤解の解消等に努めるべきではないでしょうか。

そして、ツイートの受け手も、ツイ主の趣旨を読み取り、自分勝手な読み替えをせず、喧嘩腰で突っかからないようにすべきだと考えます。

皆様はどう考えますか?

お相手は私、鶴見でした。

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