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こつこつ京都学

Vol.14 2024023
#座学コツコツ2  後水尾上皇 その2

こんにちは、「こつこつ京都学」主宰の佳子(よしこ)です。後水尾上皇(以下、後水尾)の座学を続けます。

後水尾の突然の譲位には幕府もおったまげたと思います。周囲でも、当日まで譲位の意思を知らなかったのがほとんどでしたから。
しかし、幕府は、結果的にはそれを認めることになります。
以後、後水尾上皇は、後光明(ごこうみょう)、後西(ごさい)、霊元(れいげん)の4代の天皇に対して院政を敷きました。

天皇としての在位は1611年4月~29年11月の18年半。
上皇として1629年11月〜1651年5月、落飾し、法皇として1651年5月〜1680年8月。天皇としての年月より、上皇・法皇時代の方がはるかに長いのです。

16歳で天皇となってから85歳で崩御するまでの長い人生で、後水尾は、幕府との激突をどうやり過ごしたのでしょうか。
そして、修学院離宮を造営する資金をどう捻出したのでしょうか。

後水尾と徳川和子との政略結婚で、幕府は皇室の権力を奪おうとしましたが、後水尾と和子はそれなりに良好な夫婦関係を保ち、譲位した明正天皇含め2男5女が和子から生まれています。
そもそも後水尾は女性関係にも意欲的(?)で、中宮以外にも30余人の子を産ませまたようです。
たくさんの女御、子どもがいるということは、宮廷費もたくさんいるということ。

自分で稼ぐわけではないので、幕府から引き出したり、贈与を受けたりするしかありません。実家と婚家の両方の要は上皇の妻、東福門院和子。後光明(ごこうみょう)、後西(ごさい)、霊元(れいげん)ら3人の天皇は、和子から生まれていませんが、和子の養子とされていますから、徳川幕府も天皇たちと、その後見人である後水尾の院政を無視できません。
和子がいるからこそ、それなりに資金を引き出すことができたのではないかと思います。

現代の京都の礎を作った後水尾上皇

後水尾は娘に譲位し、上皇になって以来、ある種の逆襲に取り掛かります。それが現在の京都の礎になったとも言えると、京都を取り上げたテレビ番組が伝えてくれました。

「あなたの知らない京都旅 第47回幕府と戦った天皇」(BS朝日 2024年3月21日放送)より抜粋
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左京区の圓通寺は、もともと後水尾の離宮、幡枝離宮(はたえだりきゅう)。
本尊の聖観世音菩薩は、後水尾の息子、霊元天皇の念持仏(定朝作。正月の3が日に開放)で、後水尾が使っていたとされる仏具(三具足)も残っている。
後水尾が作った寺の庭は、比叡山を取り入れている借景庭園。
現在でも、その庭を遮る建物などはなく、玉座の前には柱がなく、四十数個の岩が大海から群島をイメージして配置されている。
上皇自ら指揮をとった設計には、高い芸術的なセンスが見られる。
上皇が見ていた借景をそのままを残すため、この寺の住持は、寺と比叡山の間に何も作らないでほしいと訴え続ける。
それが後に、京都府の景観条例制定につながっていく。
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圓通寺(元「幡枝離宮」)の庭。圓通寺さんのHPから拝借しました


この番組を見て、江戸時代初期と変わらない風景が連綿と残っているってすごいなぁと思ったけれど、後水尾にとっては、庭づくりも含む「芸能」こそが生涯の生業であり、それを守り、深めるための戦いになったともいえるのではないでしょうか。
単に自分の美意識のためにそうしたというより、廃れていた天皇や貴族の文化を守り、発展させようと考えたようです。それが後水尾の、いわば逆襲ではないでしょうか。

後水尾は学問・芸術に関心が深く、勅撰和歌集である「類題和歌集」の編纂を臣下に命じました。
源氏物語や伊勢物語の注釈書を執筆し、復興に努め、俵屋宗達など絵師の活動を援助しました。俳名を玉露といい、詩歌・連歌をよくしました。御集に『鴎巣(おうそう)集』があります。
宮廷内で流行していた「立花」では、さまざまな人が参加できるコンテストを開催、庶民の文化に触れられるよう力を尽くしました。
さまざまな文化活動を行い、武士と対立しながらも、結果的に協調して京都に「寛永文化」を育んでいきます。

幡枝離宮(はたえだりきゅう)の次につくったのが修学院離宮でした。
自然の景観を取り入れた開放的な庭園で、武士が好んだ豪華絢爛な庭ではなく、平安貴族の雅を感じる庭園にしたのです。
現代の皇室から想像すると、天皇や上皇は何となくおっとりしたイメージがするかもしれませんが、後水尾はむしろアグレッシブで、情熱ばりばりって感じです。

1651(慶安4)年5月、落飾して法名を円浄と称し、1680(延宝8)年8月19日、85歳で老衰のため崩御するまで長生きをします。
追号は遺詔によって後水尾院といい、京都市東山区の泉涌寺内、月輪陵(つきのわみささぎ)を墓所としました。泉涌寺は、御寺(みてら)と呼ばれ、皇室とはゆかりの深いお寺です。

後水尾の記録を破った二人の天皇

後水尾は、昭和、平成の時代にもニュースになりました。
一世一元の制度導入(江戸時代)以前の明確な記録が残る歴代天皇(崩御時は法皇)の中では後水尾は、最高齢の85歳でしたが、1985(昭和60)年7月2日に、昭和天皇が記録を抜きました(その後、87歳で崩御)。
それまで後水尾を抜いた人はいなかったんですね!
平成天皇(現上皇)も、2018(平成30)年、3月7日に後水尾の崩御時点での年齢に到達し、現在、記録更新中です(2024年4月23日現在90歳)。

後水尾上皇は340年以上前のはるか昔、江戸時代初期の人ですが、現代とも接点をつないだ、なかなか人間臭い、チャーミングな人だったのではないでしょうか。

参考文献 
熊倉功夫著「後水尾天皇」(中公文庫)
北啓太監修「桂離宮 修学院離宮」(公益財団法人菊葉文化協会)
テレビ番組「あなたの知らない京都旅 第47回幕府と戦った天皇」(BS朝日 2024年3月21日放送)

<続く>

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#後水尾天皇
#京都検定

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