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【感想】舞台で演じるとはどういうことなのか(種村剛さん)|「秋の大文化祭!2023」

2023年12月1日(金)より上演された弦巻楽団「秋の大文化祭!2023」をご覧になった種村剛さん(北海道大学・教員)から、作品の感想をいただきました。

ご本人の了承を得て、公開させていただきます。


今年の弦巻楽団「秋の大文化祭!2023」(以下、大文化祭)は、弦巻楽団演技講座2学期発表公演として「冬の入口」(脚本:長谷川孝治)を、道外から劇団5454を迎え「宿りして」(脚本・演出:春陽漁介)を、そして札幌の3名の俳優による「死と乙女」(脚本:アリエル・ドーフマン、翻訳:青井陽治)を3日間で上演する企画でした。3作品の公演はあまり私の記憶になく、例年に比べても、非常にパワフルな陣容だと感じました。

大文化祭のユニークな点は、異なる作品を一気に上演する点にあります。私は3作品を通じて「舞台で演じるとはどういうことなのか」について改めて感じることができました。

まず演技講座生による「冬の入口」、この作品は現代口語演劇に位置づけられる名作の一つです。現代口語演劇の特徴を、私なりに整理すると、1)場面転換がない、2)時間が伸び縮みしない、3)特に大きな事件が起きるわけではないの3点になります。

「冬の入口」を要約すれば、焼き場の待合室で、坊主がくるまでの間、故人の関係者がおしゃべりをする話になるでしょうか。すべからく「冬の入口」の観客は、舞台にいる普通の人が会話をしている様をみて、その話を成立させている状況を味わうことになります。例えるならば、酒場の一番奥のカウンターに座って、お客さんがそれぞれ話をしていたり、料理人が料理を作っていたり、店員さんが注文を受けたり出したりする様子を眺めるような感じでしょうか。なにか事件が起こるわけではなく、ただただ話したりうなづいたりしながら、食事を注文して届けられた料理とお酒を嗜んでいるお客さんたちは、それぞれに生きいきとしていて、この瞬間が舞台上で再現できたら、絶対に面白いと感じることがあります。

現代口語演劇の面白さは「今ここの現実」とは「別の現実を生きている人」が舞台の上に現れる点にあるといえるでしょう。「舞台の上を生きる」ことが演劇であるならば、まさにその点をストイックに追求するのが、現代口語演劇の試みなのでしょうか。

「舞台上で生きている人」を「演じているようには見えない人」と言い換えることができるならば、俳優は「演じているように見えない」ように「演じる」ことが一つの到達点といえるでしょう。「冬の入口」に取り組んだ弦巻楽団の講座生の皆さんは、皆さんその点を意識していたように思いました。

俳優自身と年齢や性別の異なる人物を「演じているように見えない」ように「演じる」ことはとても難しいことだと思います。しかし、この経験を積むことは、演技を学ぶ上でとても大事な経験だと思います。なんといっても演技「講座」なのですから。そして、この経験を次回作の「ロミオとジュリエット」に活かされることを楽しみにしています。

そして、劇団5454の「宿りして」は「舞台で演じるとはどういうことなのか」それ自体を演劇にする試みでした。「舞台の上を生きる」ことを演劇とするテーゼに対してもう一捻りしているところが作劇のユニークな点です。

特に興味深く感じたのは「「舞台の上を生きる」ことを演じることを決意した」主人公が、だんだんと「演じているように見える」ようになってくる点です。それは逆にいえば、主人公は「最初はそこに生きているように見えていた」ということです。つまり、俳優が「生きている人」のように演じることと「演じている人」のように演じることを、意識して切り分けられられないと、この演出は成立しないのです。「舞台の上を生きる」ことの、さらにその上ができる俳優の技量に感心しました。

「舞台で演じるとはどういうことなのか」を演じる試みは、「演じる」ことを生業にしている俳優にとって、自身の営みそれ自体を「演劇」として演じること、あるいは、見せられることと同じです。

そして「宿りして」は最後にもう一捻りが入ります。それは「今ここの現実」である客席と「別の現実」の舞台を、ダイアログでつなげる試みです。この収束には、言葉の通りに、現実が歪むようなぞわぞわした感覚を味わいました。

大文化祭では「死と乙女」の上演が試みられました。演劇の背景にある、チリ軍事クーデターから50年、岩波文庫で新訳が出たタイミングで本作が上演されたことは、札幌の演劇にとどまらず、今年の日本の演劇界全体にとっても、非常に意義があることだと思います。ガザにおけるパレスチナとイスラエルの紛争、そしてロシアとウクライナの戦争が止まる気配がない、この不穏な世界において「死と乙女」が今年舞台で演じられることがなかったとすれば、それは演劇という営為の底が知れてしまうのではないか。大袈裟かもしれませんが、そこまでいってもよいのではないかと思います。なぜならば「舞台で演じるとはどういうことなのか」の答えの一つは、仮想の現実を舞台に登場させることで現実を反省的に捉え直すことだからです。

本作はそもそも脚本が素晴らしく面白い傑作です。まず、15年前自分を拷問した男に復讐する女の話を、ひとつの部屋と3人の男女の最小単位で組み立てる構成力が秀逸です。そして、女は狂気を纏っていて、故に、女が名指す容疑者は、真にそうであるかどうかわからない。妄執が真実を歪ませているのかもしれません。観客は真実と虚構の間に宙吊りにされます。この宙吊りの不安=サスペンスが本作の魅力といえるでしょう。

それだけではありません、脅迫と懐柔、嘘とはったり、生身の人間が眼前で繰り広げる、攻守を目まぐるしく変えて展開される交渉と駆引の舌戦は圧倒的です。そこには語られる言葉の強度があります。

「死と乙女」は既存台本です。演劇の内容に関する事前情報も、専門家の監修の下、詳細に示されています。しかし「ネタバレ」で面白さが失われることはなく、ストーリーがたとえわかっていても、舞台上の俳優が必死になって相手を説き伏せようとしている様に、私たち観客は引き込まれます。それは「舞台の上を生きる人」を見る面白さであり、お芝居それ自体の醍醐味だからです。

そして、暴力を持って男に虐げられた女が、その暴力によって男に復讐=私刑を行う反転した設定は、民主主義の理念と暴力の現実の対比でもあり、またその中にはジェンダーの不均衡な構造も内包しています。これだけ密度のある作品が面白くないわけがありません。

しかし、脚本の面白さを表現するためには俳優の力が必要です。本作に挑戦した3人の俳優は本当に素晴らしかった感じました。とりわけ、最年少で査問委員に選出された、若きエリート、ジェラルドーを演じた佐久間は、自身のピュアな正義感、自らの地位と社会的安定を求める自愛心、復讐を企てる妻への愛情、そして過去に妻を裏切った後悔、罪を白日の下に晒す査問委員会の意義を説きながらその舌の根も乾かないうちに過去を忘れること妻に諭す二枚舌、そして無意識のうちに女を支配する男性性や暴力性をひっくるめながら、妻と容疑者の間のスリリングな交渉ゲームの仲介者の役割を演じ切り、本作の背骨を作っていたと思いました。もちろん、演技は一人で成すものではなく、むしろ相手のリアクションによって引き起こされるものです。ポーリナを演じた木村、ロベルト役の井上の演技の総合力とそれを引き出した弦巻の演出が「死と乙女」の脚本の魅力を存分に表現していたと感じました。

本作のラストシーンを皆さんはどう捉えるでしょうか。ポーリナとジェラルドー、二人の前に「観客」として現れたロベルトは、亡霊なのかそれとも実在なのか。もしかしたら、前半のポーリナの復讐劇こそが壮大な虚構だったのかもしれません。そんな考察の機会がより多く持てるように「死と乙女」の再演があることを願っています。

種村 剛(北海道大学・教員)


弦巻楽団の次回公演等のお知らせは、公式サイトをご確認ください。

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一般社団法人劇団弦巻楽団
info@tsurumaki-gakudan.com

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