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読後の愚考 #1【ただしい人類滅亡計画/品田遊】

「人に迷惑をかけてはいけません」から始まる反出生主義

道徳的反出生主義を極めて簡単に説明すると「出産は非道徳的だからすべきでない。子供にも他人にも迷惑をかけるからやめておけ。」というものだ。もしあなたが道徳的な人間を自認するならば、程度の差こそあれ、子を持つことは「人を殺すことと」同様の罪と考えなければならない。

人生において苦痛はできる限り取り除くべきであるが、苦痛を全く感じない人生なんてあり得ない。また人生を幸せで満たしたところで苦痛が帳消しになることはない。3億円が当たっても車にはねらると痛いし、最高の配偶者に巡り会えても空腹からは逃れられない。苦痛と幸せは非対称なのだ。どれだけ満たされたとしても人は悩み苦しむ。そんな我々人類は幸福を実現するため、そして苦痛を回避するために道徳を築いてきた。

反出生主義で最も酷い誤解は「じゃあお前が死ねば?」である。人生における最大の苦痛は死だ。苦痛を回避するという道徳的規範に従えば自殺は最悪の行為である。反出生主義は反生存主義ではない。今生きている人々の幸福は願っている。

ただし出産することだけは許さない。出産は苦痛を感じる新たな人間の増加を意味する。苦痛を回避することが道徳性ならば、出産は苦痛を出現させる非道徳の塊だと言える。親は子供に「人に迷惑をかけてはいけません」と教えるが、子供が人生で最初に迷惑をかけられたのは紛れもなく親なのだ。

子供は生まれなければ幸せも苦痛も感じない。ただの無である。苦痛を幸せで帳消しにできないこと(非対称性)を踏まえると、生まれた時と生まれなかった時で道徳的に良いのがどちらなのかは自明だ。0を1にする罪は重い。

苦痛をできる限り取り除くという道徳的な考えからスタートすると簡単に「人は出産をしてはならない」という結論を導くことができる。

道徳はインチキである

反出生主義が道徳的な考え方であるならば、世の中の親は漏れ無く非道徳的な人間だ。我々の先祖は全員道徳上の罪を犯していることになる。

このような道徳の暴挙は日常のあらゆる場面で生じる。例えばある商品を買うとする。その商品の裏には様々な労働が存在する。設計、製造、流通、etc...。全ての人がそうではないが一般的に労働には苦痛が伴う。人に苦痛を与えた結果、我々は商品を購入できている。つまりモノ・サービスを買う人間は全て非道徳的であると言える。

つまり突き詰めて道徳的な人間であるには、山に篭って自給自足する仙人になるしかない。そして仙人生活によって自分自身が苦痛を感じることも道徳的ではないため、楽しまなければならない。我々に幸せな仙人生活はほぼ不可能であるにも関わらず、現代社会において道徳が政治的パワーを持つという矛盾が存在している。実際に法律は道徳性のある共同体を維持するために作られている。

また道徳の適用範囲は普通、人間に限られている。だが苦痛を感じる主体は人間だけではない。植物も動物も生きとし生けるもの全てが苦痛を感じる主体だ。あまりにも都合の良い思想である。

道徳自体がインチキで無意味な幻想だとするならば、そこから論じられる反出生主義の説得力は皆無になる。互いにある程度の苦痛を分かち合って人間社会を成立させている点においても、我々は根本的に非道徳的な存在である。そんな存在に対して「出産は非道徳的だからやめろ」と言っても「私は非道徳的なので出産をしても構わないですね」と反駁されるだろう。

時間の概念を導入すると出産自体は道徳的に全く問題ない

単純な思考実験をしてみる。2人の親から3人の子供が生まれた場合、苦痛の総量は2nから3nとなる。一時5nに増えるがいずれ親は死に、3nに落ち着く。2人の親から2人の子供が生まれると最終的に苦痛の総量は変わらない。2人の親から1人の子供が生まれると苦痛の総量はn減る。死んだ人間は苦痛を感じる主体とならないため、2人の親が子供を2人以下で出産するならば道徳の「苦痛をなるべく減らす」というルールに適合する。時間の概念を導入するによって、出産自体に非道徳性はなく、3人以上の出産は非道徳的だと結論づけることができる。

合計特殊出生率のデータを見ると世界の100カ国近い国家が2.0以下である。中進国以上はもれなく2.0以下だ。様々な要因によって世界の出生率は下がっており、これは偶然にも道徳に適っている。

時代が進むと世界中のすべての国がいずれ2.0以下の出生率になる、かもしれない。100億人の人口が50億人に減ると苦痛の総量が半分になる。出産を禁止しなくとも出生率が下がることで苦痛の総量を減らすことが可能である。

道徳が内面化された私はどう生きるべきか

道徳の論理を突き詰めるとインチキ臭いことが明らかになった。だからといって私は「人に迷惑をかけてはいけません」「幸せになりたい」という感覚から抜け出そうとは思えない。非道徳的な人間だという自覚を避けたい。それは教育の賜物であるが、現在の社会を生きていくためには表面的な道徳感覚は必須であるからだ。

私は人間の欲望には2パターンあると考えている。1つ目は自己保存欲で、食欲や睡眠欲、自己承認欲求などが含まれる。2つ目は刺激欲で、お酒やタバコ、コンテンツ、趣味などが含まれる。これら2種類の欲望を満たそうとする1人間として、私は社会に属すことに利があると考える。

したがって私は表面的な道徳感覚に従い、社会に適合し、DNAに刻み込まれた欲望を満たすために行動することが最善だと考える。

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