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「自分に自信がない」

1 自分に自信がない
「やりたいことがわからない」とセットで語られることが多いのが「自分に自信がない」である。

特に新潟大学や茨城大学のような地方国立大学に比較的多いのが、優秀であるが故に学費の問題なども考慮して国立大学を目指し、最終的には(センター試験の点数などによって)第1志望ではない国立大学に入学するというような状況である。

 そういう大学生たちに接してきたが、多くが自己評価が低い、つまり自分に自信がないという状況にあった。また、他者の評価が気になる、というのも同時にあった。

 これについても、長期のインターンシッププログラムや商店街などでの地域プロジェクトを実施しながら、「自分に自信がない」問題について考えてきた。

その中で見えてきたのは、
自分とか自信とかってどういうことだろう?
という疑問だ。

① 「小さな挑戦を繰り返して自信をつける」
「自分に自信がない」という人に対して、よく発せられるアドバイスは、「まずは小さな挑戦(チャレンジ)から始めて、少しずつ自信をつけて、だんだんと大きな挑戦をしてみよう」だ。あるいは適当なおじさんたちに出会うと、「とにかく好きなこと何でもいいからやってみりゃいいんだよ」と言われる。

しかし、このアドバイスには重大な欠陥がある。本当に自信がない人は、最初の小さな挑戦のドミノが倒れないのだ。最初のドミノが倒れないのであれば、その人はいつまで経っても自信がつくことはない。

② 出会いの偶然性でドミノを倒す
そんな若者に対して、本屋「ツルハシブックス」が取ってきた方法が、「挑戦だと自覚ないまま行動している」という状況をつくることだった。
ツルハシブックス店員のルールとして、すべてのお客さんに話しかける、ということを基本にしていた。そこに、その日だけの出会いの偶然が生まれる。そこで、何かのイベントやプロジェクトに誘われる。すると誘われた人はそこに運命的なものを感じて、行動を起こすということが起こる。
たとえば、部活を辞めたばかりの中学校2年生がお父さんと一緒にやってきて、そんな話をしていたら、「お菓子作って屋台で売ってみないか?」と誘われて、友達と一緒に屋台をやる、ということが起こってきた。それは、彼女にとって小さな挑戦であるという自覚はなかっただろう。おもしろそうだから、やってみた。それだけである。

③ 自分に対する自己評価を下げたくない。
以前、とある国立大学の先生にこんな話を聞いた。その大学が取り組んでいる長期のインターンシップに申し込んだけど直前で取りやめる大学生が何名かいて、その理由は「途中でやめると受け入れ先やほかの人に迷惑をかけるから」だったという。その言葉の真意は、「途中でやめて、自分に対する自己評価を下げたくない」なのではないか、とその先生は言っていた。

2 固定的知能観と成長的知能観
スタンフォード大学のキャロル・ドゥエック先生や同志社女子大学の上田信行先生は研究の中で、それはマインドセットの問題だという。

「マインドセットがしなやかならば、かならずしも自信など必要としない」

著書の中で、ドゥエック先生は、「こちこちマインドセット(固定的知能観)」と「しなやかマインドセット(成長的知能観)」の差が、学習意欲を左右するのだと説明する。

自分の能力は生まれつき決まっていて、それ以上になることはない、と思っているか、たくさんの出来事や失敗を重ねる中で自分はどんどん成長していけると思っているかどうか。そのマインドセットの差によって、挑戦する大学生と挑戦できない大学生を生んでいる。

そして、注目したいのは、幼いころは多くの子どもは、やればやるほど自分は成長できる、つまり、成長的知能観をもっているのだけど、年齢を重ねるにつれて、固定的知能観が優勢になっていく、ということである。

そして、ドゥエック先生が言うように、成長的知能観さえ持っていれば、自信は必要なく、新しい学習機会(つまり挑戦)をすることができるのである。

3 逃れられない「承認」欲求と他者からの「評価」
「自分に自信がない」問題のもうひとつの要素は、もちろん「自分」である。「認められたいの正体」(山竹伸二 講談社現代新書)によれば、人間の承認欲求は3段階に分かれているという。

1「親和的承認」(ありのままの自分を承認される。存在承認)
2「集団的承認」(集団の中で役割を果たすことで承認される。役割承認)
3「一般的承認」(一般的によいとされていることで承認される。一般承認)

この第1段階の「親和的承認」を受ける機会が減っている、というのが僕の感じていることである。その原因は、「地域」コミュニティの崩壊と核家族化とコミュニケーション不足である。

「自分に自信がない」の根源的なところには、「存在承認」つまり、自分がこの社会に生きていてもいい、という実感がないというところに行きつくのではないか。

そしてその承認は家庭によって与えられてきた。

たとえば、小学生低学年の女の子が何か悪さをして、お母さんにこっぴどく怒られる。大泣きをしながら、おばあちゃんの部屋に逃げ込む。おばあちゃんは孫が泣きながら入ってくるのでビックリするが、すぐにその孫を抱き寄せて、頭をなでながら、こう言うのだ「大丈夫、大丈夫。○○ちゃんがいい子なのは、おばあちゃんがよく知っているから」

このような状況が起こりうる家庭は、いまどのくらい存在するのだろうか。コミュニケーションの機会が減り、また教育方針によっては、テストでいい点を取ったから誉める、などの状況であるかもしれない。つまり、「親和的承認」を得られる機会は極めて少なくなっているのである。

地域コミュニティがまだ生きていて、近所で声を掛け合い、またお祭りなどで顔を合わせたりするような地域では、それによる承認機会があるのだけど、そんな地域もほとんどなくなった。

しかし、子どもたちにとって、いや、大人たちも「承認」欲求は根源的な欲求である。人は誰かに承認されないと生きていけない。

4 学校という「他者評価」依存装置
学校は、その根源的な「承認」欲求を巧みに「他者評価」欲求への変えるような魔法をかけてきたのではないか。

あなたがほしい「承認」は、先生からの「評価」によって得られるのだ

と呪文を唱えてきたのではないか。

冒頭に書いた、地方国立大学の学生に聞くと、少なくない学生が他者からの評価を気にしていた。

でも、本当は、評価じゃなくて、承認が必要なんじゃないか。

5 島のじいちゃんばあちゃんがくれる「承認」
新潟の北、村上市の沖に人口300名の漁業と観光の島、粟島が浮かんでいる。とある大学で行った3泊4日のプログラムで、大学生は劇的に変わったように見えた。そのカギは「承認」、それも親和的承認(存在承認)なのではないかと思っている。

シーズンオフ(海水浴シーズン以外)の粟島に行くと、島民以外の歩いている若者を見かけるのは珍しいことだ。

すると、島のじいちゃんばあちゃんは、必ず話しかけてくる。
「どこからきたんだ?なにしにきたんだ?どこに泊まっているんだ?」と。
すごいマーケティングトークだ。(笑)

それを4日間も繰り返す。じいちゃんばあちゃんに話を聞く。
すると、大学生は「若いだけで自分は価値があるんじゃないか?」と思えてくるのだ。

実はそれは勘違いではなく、そのとおりだ。
大学生は、若者は、若いだけで価値があるのだ。それは年を取ってから切実にわかる。(笑)

そんな親和的承認の機会を得ること。

「自分に自信がない」と悩んでないで、まずは離島や田舎へ行ってみること。若さという価値を体感すること。そこから始めるのも悪くない。

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