俳句をちょっと(上島鬼貫編)
こんばんは。
毎度お世話になっております。つるです。
ヘッダー画像を
みんなのフォトギャラリーより
お借りしています。
余りにも沢山な銀杏(いちょう)の葉に
圧倒されました。^^
使わせていただきます。
ありがとうございます。
さて、この記事(コーナー)ですけれども、
今回で第2回となります。
前回の記事を読まなくても、
お読みいただけるような記事を
心掛けて書いてみたいと思います。
俳人(俳句を詠む人)を
紹介するコーナーです。
気楽に参りたいと思います。
上島鬼貫(うえしまおにつら)
(1661~1738)
兵庫県(当時では摂津国)に
生まれたようです。
酒造家の油屋一族の生まれだそうです。
江戸時代の人。
早速、作品を見てみます。
行水の捨てどころなき虫の声
(ぎょうずいのすてどころなきむしのこえ)
行水。
今は日本ではされなくなったかもしれません。
盥(たらい)などを使って、
簡単に湯で体を洗うことのようです。
烏(カラス)の行水、
なんて言葉もありました。
昔、お風呂を早く済ませると、
「カラスの行水みたいやねえ。」
なんて突っ込んだりしたものでした。
鬼貫の一番知られる句だそうです。
行水に使った盥の湯を、
捨てようとしたけれど、
辺りはきれいな虫の声で一杯で、
虫に掛けてしまうのも心苦しい、
とか、そんな感じの解釈に
なるでしょうか。
例えが下手かもしれませんけれども、
今でも虫一匹殺せない人って、
いらっしゃるかもしれませんね。
今も昔も変わらず、
といったところでしょうか。
似たような句があります。
のちの俳人で、
千代女(ちよじょ)という方が
おられるのですけれども、
1句。
朝顔に釣瓶とられて貰ひ水
(あさがおにつるべとられてもらいみず)
があります。
釣瓶(つるべ)、というのは、
私は馴染みが無いので
説明しづらいのですけれども、
井戸の水を汲むための紐(ひも)?
縄のような、井戸から水を汲むための
桶のくっついてる装置でしたでしょうか、
上手く説明できなくて申し訳ない
ですけれども、
要するには、
朝顔の蔓(つる)が巻き付いていて、
それを外すのもはばかられて、
自分の家の井戸では水を汲めない、と。
そこで隣近所から水を貰った。
くらいの意味でもよろしいでしょうか。
鬼貫は、虫。
千代女は、植物への愛情を
表した句と解します。
今一度、鬼貫に焦点を当てます。
私の持っている鑑賞本には、
「まことの外(ほか)に俳諧なし」と
悟って、
率直で平易な俳風を示した。
とありました。
他の句も見てみます。
庭前に白く咲いたる椿かな
(にわまえにしろくさいたるつばきかな)
句の前に、前書きがあって、
ある和尚さんから、
あなたの俳諧観はどのようなものですか、
と禅問答を仕掛けられて、
この句を即詠んで答えたそうです。
簡単に申しますと、
作意を捨てて、
無心にありのままを詠むのが、
わたしの俳句観です。
と答えたに同じようです。
鬼貫の精神性は、
宗教的(禅的)な精神の持ち主でした
ようです。
他の句でも、それを感じるものが
ありますけれども、
少し面白いのは、
口語調の句も多く詠んでいるところです。
惜しめども寝たら起きたら春であろ
によつぽりと秋の空なる富士の山
冬はまた夏がましじやといひにけり
など、巧みな面白さを詠んでいるように
思われます。
最後にきれいな1句を挙げます。
春の水ところどころに見ゆるかな
句解には、
春が来て、
野山のところどころに
豊かに白く光ってみえる
川や池が見えることだよ、
と解説本にありました。
私なんかは、
まず雪解けを想像しました。
雪が溶けて、
ところどころが水たまりに
なっているような北の春の風景です。
純正な詩を志向する
時代を生きた人のようです。
まもなく松尾芭蕉が
現れるのでした。
ああ、少々長くなりました。
今回は1500文字超えです。
それでは、
もしよろしければ、スキお願いいたします。
m(_ _)m
拙い文章をお読み下さりまして、
まことにありがとうございます。
次回も書けたらと思います。
それでは一旦失礼いたします。
(参考)
『新編 俳句の解釈と鑑賞事典』
尾形仂 編著
つる かく
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