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紺ブレから考える「男の縛りプレイ」

春が近づくと、紺ブレが恋しくなるのはなぜだろう。

みんな大好き紺ブレザー
いわゆる男の「定番」itemのひとつだろう。

定番なるものが数多く見受けられるのも男服の世界ならではであり、当然歴史的背景も深い。

まあそのあたりの蘊蓄は他に任せるとして、敢えて今回は「縛り」の話をしてみたくなった。


「人と被ってなるものか」

その気概が無くなったわけではない。

いわゆる定番モノを纏うことは、自己表現の可能性においては縛りにもなり得るわけだが。

ただ、人と同じitemを身につけることすなわち没個性、そう短絡的に解釈するのはお粗末だ。そんな風に思えるほどには、私も少しは大人になったのだろう。

では、この縛りプレイには一体、どんな楽しさがあるのだろうか。


「男と女の在り方の違い」

ファッションについて何かを考察する際、こと私の場合「男とは」みたいな暑苦しい前提が多くなる。

そんな時は、いわゆるフォーマルの場面へ立ち返ってみると具合がいい。

たとえば、夜の時間帯での社交の場があるとするなら、男性は“black tie”で女性は“evening dress”といった服装規定が設けられたりするのだが。

ちなみに私は、ドレスコードとかルールみたいな話を説教じみて論じる立場でないことは伝えておく。堅苦しい話を避けたいのはお互いさまだ。

black tieとはつまり、米国風でタキシード、英国風でディナージャケットと言ったりするが、まずはその情景を思い浮かべてほしい。

男性は一見、皆が同じ格好をしているように見えるだろう。それに対し、女性はどうか。

もちろん、evening dressにも決まりは存在するが、男性に比べると自由度がぐんと上がってくる。

たとえば、ドレスの色味は様々であり、細かなデザインや使われる素材等も多岐に渡る。

そう、赤いスパンコールのタキシードを、そういった場面で男性は着ないのだ。

その代わり、皆が同じような格好に身を包むのである。実社会における身分や立場に関係なく。

ここに実は、敢えて外界での格差なるものを持ち込まない、そんな社交場に対する心意気もみえてくるのがまた、興味深かったりするのだが。この話はまたいつか。


「場をつくる役割」

さて、ここでだ。

男だけ自由がなくてつまらない、そう解釈する人は気をつけたい。

いやそうか、男が黒子に徹することで、女性が存分に輝く場ができる、そう解釈してみる。

男性と女性で、装うことの根底にある目的意識がまったく異なる、その面白さに気づけるか。

わかりやすく言うなら、
男性は「場をつくる」ために服を着るのに対し、女性は「場で輝く」ために服を着るのである。


「縛りプレイの醍醐味」

この世紀の大発見は、少なからず私の人生に影響を与えている。

ファッションの話に限らず、エスコートする興が、男である我々には許されているという計らい。

そして、その役割を全うした上で、密かに自己表現を謳歌しようじゃないかという嗜み。

そんな縛りプレイの醍醐味は、この大義に基づいているが故の儚さにあるのだろう。

もちろん私自身も、型に嵌められるのなど御免な人間でありつつ、型に嵌まりながら表現を楽しむ男の一人である。

それが単なる開き直りではないことは、五七五七七の縛りの中で和歌を嗜みながら、着物の裏地で粋を競い合った、古の先輩たちもまた、証明してくれているのかとしれない。


紺ブレから考える「男の縛りプレイ」 完

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