私の不妊治療⑬「心身不安定」

#子ども産まなかったら経験しなかったこと
こんなタグが最近話題になった。

私自身このタグを見て感じたこと、、正直あまりない。
その文字面から「子供がいてよかった」「子供がいなければこんな経験は出来なかった」と
喜びに満ちた呟きが羅列されることは想像に容易い。
その人たちはあくまで自分の価値観に基づき、自分の置かれている環境しか考慮していない。
でもそれは決して悪い事では無くて、当たり前だと思う。


でも一不妊患者として、この言葉に傷つく人がいることも想像できる。
ただそれをツイートの発信者が想像できるか、理解できるかと言えばそうじゃないとも思う。
考慮しなくてはいけないか、と問われても「考慮すべき」とは思わない。
「考慮してくれたらありがたい」その程度だ。


決して自分に非があるわけでは無いのに、いつの間にか社会の「当たり前」から振るい落され、
簡単には理解されない悩みを抱える私たち。

不満は募る。自分たちのことを不憫に思う。
それは被害妄想ではなく事実だと思う。(妄想、とは事実ではないことを事実だと思い込むこと。)

でも、どうして偏見に晒され心無い批判を受けなければいけないのか、という憤りは消えることがなくても、
「万人が理解してくれないなんておかしい」というのは、無茶な話だと思ってる。
自分が不妊治療に足を突っ込んだから知っているのであって、
タイミングの時は体外受精の事、苦しみなんてやっぱり理解できていなかったし、
自分に不妊治療が必要だと知る前は、「子供は自然にできるもの」とやっぱり私だって思っていた。
「子供は自然に出来るもの」という現実の中で生き続けている人に、不妊治療を語るのは難しい。
知ってもらうのは難しい。

時に存在する思いやり溢れた人だけが、理解は出来なくても想像力を働かせ、
不妊治療の実態を知ろうと努めてくれる。
それだけ。


理不尽な物言いに傷つくのは事実、事実を知らないがために発せられる偏見に貶められるのもまた事実。
抗議するのも間違ってない、異論を唱えるのも間違ってない。

でも、根本的に、分かってもらえないのは仕方ない。
だって不妊治療のことなんて、考えたことない人の方が圧倒的に多いんだ。
「配慮しろ」「私たちの事も考えろ」というのは現状求めすぎなんだ。
まだまだ厳しい現実だ。


国によっては不妊治療は非常にオープンなものという。
それくらい、国を挙げて広く理解されるように働きかけ、国中に浸透すれば世界はもうちょっと生きやすく変わる気もする。
でも、日本はまだ遠いと思う。



今日で7w5dとなった。
まだ出血有。切迫流産の自宅安静が続く。
安心に飢える毎日。
少しの腹痛が怖い、トイレで血を見るのが怖い。
少しくらい大丈夫、大丈夫と言い聞かせるも、
初期流産することは無いなんて、保証はどこにもない。

ふと友人の出産の事をまた考えてしまった。
彼女が話してくれたあの時もまだ、初期だったはずだ。
…よく人に話せたなぁ。

やはり自然妊娠とは捉え方が違うと思った。


ここに来るまでに時間と、労力と、お金を費やした。
身体も壊した、会社にも何度も頭を下げた。
何度も繰り返せるわけではない。
流産しても翌月に自然妊娠、なんて私たちにはありえない話だから。

治療に戻りたくない。でも流産率も低くない。不安が募る。
悪阻はある。でも少しマシになった気がする。
ピークはこれからなのにどうしてだろう。
家で安静にしているからなんだろうか。

この気持ち悪さも、子供が無事でいてくれるならいくらでも耐える。
あと2週間ちょっとで10週、あと1か月で12週。
とても長く感じる。
どうかどうか、無事でいて。
10月まで出てこないでお腹の中ですくすく育ってね。


次回「居場所」

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