父のこと #猫を棄てる感想文2

主題と変奏 続き

 父がこの世を去ってもうすぐ二十年になります。

 私が高校生になった頃のことでしょうか。ある晩酒を飲みながら、父は、
「教壇で、特攻隊員の募集をしたことがある。」
と話し始めました。実際どれくらいの話だったのか詳しくは思い出せません。ただ、静かに短く吐き出すように語ったことを覚えています。時代は70年代の初め、世の中は騒然としていました。当時の社会についての話題から入ったと思います。父はまた静かに酒を飲み続けました。
 私の父は、徹底した平和主義者でした。私の少年時代、60年代は戦争の影が色濃く残っていました。漫画雑誌には、戦争物が多く連載され、戦闘機や軍艦のイラストが表紙を飾っていました。プラモデルも、大半が戦闘機、戦車や軍艦だったのですが、我が家にそれらを持ち込む事は決して許されませんでした。戦争物の映画や軍歌がテレビから流れれば、顔をしかめてすぐチャンネルを変えるか、スイッチを消してしまいました。このとき、そのわけを知りました。
 父は、病気のため兵役を免れ、旧制中学校の新任教員として戦争末期を過ごしました。そのときの体験です。積極的に募集活動をしていたのか、上部からの強制に従わざるを得なかったのか。実際応募した生徒がいたのか。詳しくはわかりません。ただ、黙って話を聞くほかありませんでした。私は若かったし、語り口には、重みがありました。
 父は、戦後も教員を続け、定年退職後も暫くは非常勤講師として高校生を教えていました。少なくとも大変熱心な教員でした。私たち子供が寝る時、隣の部屋からは、翌日の授業プリントを作る鉄筆の音が聞こえました。クラブも丁寧に指導していましたし、今思えば草分け的な存在だったと思いますが、生徒カウンセリングに取り組み、その普及活動は退職後も続けていました。組合運動にも関わっていたようです。かつての同僚が次々と管理職になっても、父は最後まで教室で授業を続けました。でも、父はこの戦時中の体験を殆ど語る事がありませんでした。私が大人になるのを待って、なんとか伝えようとしたのでしょう。家の外、社会的立場で語ったことは一度もないだろうと思います。
 戦争の被害者としての体験は、時間と共に、そして人に語ることによって癒やされて行くようです。私の母は仕事の関係で疎開できず、東京での母娘二人暮らしで敗戦を迎えました。新宿大空襲の際は、火災の延焼が住居の隣まで及んだそうです。祖母の家の北側には、焦げた庇が残っていました。私が幼い頃、母はよく空襲の夢にうなされ、そのたび家族皆が目を覚ましたものでしたが、その回数は年と共に少なくなりました。戦争の話、空襲の話はくりかえし聞かされました。それも、戦後の開放感と対になっていたことが多かった様に思います。
 戦争の悲劇は勿論命を失うことでしょう。しかし、戦争を生き延びた人間にとっての一番の悲劇は、『他者の命を犠牲にして生き延びた体験を抱えながら、残りの人生を歩む』ことではないか、『猫を棄てる』を読み私の父を思い出して、改めて思わされます。「敵」に銃を向けることで生き延びる。隣人を戦地に送る。友人が死に自分が助かる。こうした体験をくぐり敗戦をむかえた人たちは、心の奥に癒やされることのない傷を抱えながら、後の人生を歩んだはずです。戦後復興を担った世代は、新しい社会建設のためにつくしました。
 死者の切迫から逃れることは、宗教の大きな役割の一つだったはずです。しかし、宗教は生活共同体に担われてこそ実体的な意味を持ちます。戦争は世界的規模で行われ、一方で地域共同体は、生活を共に支える機能を殆ど失いました。共にいのり、共にまつる場を失って、村上氏の父は、一人静かに仏壇に向かうことになったのでしょう。私の父は、ただ働き続けました。
 彼らが戦争を生き延びた体験、その思いを抱えながら戦後を生きた体験は、語られることも、芸術作品として結実することも殆どなかったようです。少なくとも私のような普通の生活をする人間に伝わるような形では。数知れない人々が、父と同じように、胸の痛みを残したままあの世へ向かったことでしょう。
 かつて『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク)が描く、戦争がもたらす加害と被害が入り組んだ何ともしがたい哀しさに、心を打たれました。『猫を棄てる』『騎士団長殺し』を読み、同じ通奏低音を感じます。雨宮具彦は、日本画「騎士団長殺し」を天井裏にしまい込みました。「私」とまりえだけがこの絵を見、騎士団長の存在を改めて確認します。再び絵は天井裏に移され、やがて焼失してしまいます。これは、戦争体験を表現すること、語り継ぐことの難しさを象徴しているようです。
 私は大学卒業後教員になり、退職後の現在も塾講師などをして子供たちと関わっています。自分の意志で選んだと思っていた道でした。しかし、こうやって考えてみると、父の生き方と思春期に聞いた言葉が、常に心の奥底にあったのではないかと感じます。

雨宮具彦は、救済され死を迎えました。今、そのことを考えています。

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