主題と変奏 #猫を棄てる感想文

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでもう三十五年たつ。 『羊をめぐる・・』より抽象化された物語の世界に圧倒された。が、楽しみにしていた次の長編、『ノルウェイの森』を読んで失望した。このような文章書いて欲しくない。それが当初の感想だった。しばらくは再読することもなかった。
 それ以降の長編はまた、「もとの道に戻った」感があって一安心。『ノルウェイ・・』の見方が変わったのは、『世の終わり・・』と似たような構造をとる『・・カフカ』を読んでからだろうか。『ノルウェイ・・』は、『世の終わり・・』の書き直しではないか、と。
 すぐれた作曲家は、変奏曲の名手である。作曲とはそもそも変奏曲を書くことと殆ど同義である。バッハの作品の多くは、広い意味での変奏曲。無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第1番は、舞曲のあとに、ドゥーブルと書かれた分散和音に展開した変奏曲が一曲ずつ挿入されている。『ノルウェイ・・』は、『世の終わり・・』のドゥーブル。もしくは、同じ通奏低音を用いた二つの変奏曲として読んでみようと思い始めた。「なに『世の終わり・・』わからない?。だったらこれでどうですか。」と言われている気がして。作者は、『ノルウェイ・・』は、徹底したリアリズム小説と繰り返し述べているけど。このような指摘はされていたらしいが、邪道の様な気がして「春樹解説本」を殆ど読まない私は、なかなか思いいたらなかった。
 私は京都に住み、北山ほぼ全域を歩いている。1970年代、京都三条京阪から北山に入るバスは出ていた。しかし北山のどこにも『ノルウェイ・・』のモデルになる病院も、山の上の牧場もない。極端な読み方をすれば「僕」は実在しない場所で直子と会った、と。四国の山奥に、かつて失踪した兵士が守る閉ざされた集落が存在しないように。この物語のどの時点で、直子はこの世を去ったのだろう。『国境の・・』の島本さんは。
 今冬、私は『騎士団長殺し』を再読したところだった。そこに『猫を棄てる』。『ノルウェイ・・』を思い出した。これは、『騎士団長』の変奏曲。いや今度の場合は、『猫を棄てる』が、テーマ、『騎士団長殺し』はその変奏曲のように思われる。実の父の死を見届け、その生を受容すること。事実を報告すれば『猫を棄てる』。しかしそこにあるものを表現しようとすれば、長い物語として展開せざるを得なかった。
  私の父が死んだ⇒『猫を棄てる』。
  父の死で、私は少し変わったかもしれない⇒『騎士団長・・』。
『ドン・ジョバンニ』では、騎士団長はジョバンニを地獄に落とす。映画『アマデウス』では、騎士団長はモーツアルトの父を象徴するものとして描かれていた。
  私の父-雨田具彦-騎士団長-イデア ⇒父
  私-免色渉-スバルフォレスターの男-秋川まりえ ⇒私 
 少しそれるが、ユキ、メイ、えり まりえ、村上春樹の小説に繰り返し登場する 十代の少女は、「私」の影、ユング心理学の「アニマ」ではないか。宮崎駿のアニメーションに登場する少女も。
 人類が地上に現れて以来、我々は共同体として生き、共同体として死者を弔って来た。時間は、共同体と共に流れ、歴史は共同体に共有され語り継がれてきた。その流れの中に人々は生きてきた。現代の私たちは、その重層的な記憶の上に生きている。一方、実体としての生活共同体は殆ど崩壊してしまった。我々は、自らの生と死をどのように了解しているのだろう。「現在」をどう受け止めれば良いのだろう。村上春樹は、この事態に正面から向き合ってきた。だからこそ、ネオリベラリズムの席巻するこの時代に、世界中で共感を呼び支持されてきた。
 彼の初期作品は、徹底して個を描いてきた。主人公の自己了解に、世間の視線は一切登場しない。人と比べることはない。競わない。群れない。ただ共感する相手として他者が存在する。私自身、人生の転機に、不愉快な事態に巻き込まれた時に、彼の物語にずいぶん救われてきた。私の人生の伴走者。願わくば、苦しかった十代の中期、彼の物語に出会いたかった。今の若い世代は、彼の長編を一気に通読できる。どんな自己形成ができるのだろう。
 生活共同体は崩壊しても、家族は残る。家族は、生活共同体の一単位として機能するはずだった。数万年の歴史の中でそのように設計されてきた。言い換えると、そのような共同体だけが、生き延びることができた。その前提が実体として失われつつあある。近年社会問題化する家族関係の不全はいわば当然の結末。特に、西欧諸国に比べ、近代化が数倍の速度で進んだ日本では、共同体の崩壊から家族を守る手立てを構築する余地が乏しく、家族の問題とより直接向き合うことになった。
 村上春樹の物語には徐々に「歴史」「家族」を象徴するものが現れ、奥行きを深めてきた。『騎士団長・・』で、作者はついに「歴史」「家族」が正面で交錯する物語を書いた。『猫を棄てる』は、このことを読者に明示するため添えられた。現在、「歴史」「家族」を梃子にして「個」を国家に吸収する圧力が強く働き始めている。その流れに抗う物語を書き連ねて欲しいと願う。一方彼は、物語の作者とは 共同体の巫女-語り部のようなものと言う。彼の物語はまた、我々が持つ想像力の限界に依存しているのだろうか。
 物語は自由に読み解釈して良いもの、と作者は繰り返し述べている。それを良いことにしてここまで書いた。しかし、「川上から流れてくる大きな桃」の意味を考えようとするのは、野暮なことなのかも知れない。

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