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連載小説『将軍家重の深謀-意次伝』終章


終章 七万坪の更地


 これまで着々と幕府の財政改革を進め、ついに最後の目標を手掛けるまでに至った。天明六年(一七八六)春、意次はこう思ったに違いない。意次の最後の目標、それは全国の民に広く薄く、税なり社会費用を分担させることだった。
 前年師走、幕府は大阪の豪商から御用金を徴募し、大名に貸付ける資金とする仕組みを試みたが、順調に資金を調達できなかった。諸藩の財政逼迫は深刻で、幕府がなんとか支援したくとも幕府の財源に限りがあった。
 各藩の自力再生を支援する社会の仕組みが必要なことは明らかだった。意次は勘定所の主だった者の議論を聞きながら、豪商に頼った瀬踏みの試みより、いっそ、本当の狙いを速やかに実行すべきだと決断した。
 意次は、将軍家治の健康状態も考慮した。どうも脚気がかんばしくないようで、しっかり養生していただかねばなるまいと思った。
 ――おそらく我が生涯、最大最後の仕事になるであろう
 意次にとって、家治は惇信院の重い遺言を背負って共に歩んだ仲であり、主君という以上に心の内では同志であり戦友だった。最後の目標の発布にどうしても欠けてはならず、政策発布は早いに越したことはなかった。
 六月二十九日、準備を終えて幕府はついに全国御用金令を下した。そこには、大名支援を目的とする資金集めだと堂々と謳ったうえで、宮門跡みやもんぜきを除く全国全ての寺社に格式に応じて最大十五両を賦課し、公料私領の農民は高百石あたり銀二十五匁が、商人は構える店の間口一間あたり銀三匁が義務付けられてあった。納付は年一回にして五年間。
 強制された資金拠出だから税と似ているが、将来、利息とともに返済されるから税ではなかった。後の世に云う国債を国に強制されて購入するようなものだった。
 この民間資金に幕府が追加出資して会所を設立し、希望する大名に貸付ける。年利は七厘(七パーセント)、そこから会所費用、およそ一厘(一パーセント)分を差引いて利息とし元金とともに民間拠出者に返済する。大名にとって、払う金利は豪商から借りるよりよほど低かった。ただ幕府が関わるため、商人相手の強引な踏み倒しはできなかった。
 大名から取る担保は大坂における米切手か、あるいは領地の年貢徴収権に限り、返済不履行には幕府が責任をもって回収する仕組みとした。これは要するに一般の民に出資させた幕府立の銀行と云ってよかった。
 幕府が大名を介さず、その領地の農民、町人、寺社から直接、資金調達しようというのである。経済一元化の試みの一つであり、惇信院から引き継いだ構想の行き着く先と言ってよかった。
 かつて宝永の富士山噴火後の復興のため、幕府が全国の農民、町人に一年を限って別税を賦課した先例があって、此度の発布が初めてというわけではなかった。総負担額も宝永期と似たようなものだが、五年割賦、元利が戻ってくる点で大きく異なっていた。
 大名は幕府の計画を知って驚愕した。領主本来の年貢徴収権を犯すものではないか、農民から相当に絞って藩財政を遣り繰りしているのに、農民に一律に賦課されれば一揆が起きかねないではないか、などと深刻な懸念を持った。
 領地の年貢徴収権に他者の介入を許さないのが古くからの藩体制である。この理屈からして大名の抱く懸念に一理あった。しかし、事あるごとに幕府の財政支援を受けるので、藩の犯すべからざる権限を主張するのにひるむ気分がないではなかった。困惑の声が在府の大名の間でささやかれたのも無理はなかった。
 これに定信一派が敏感に反応した。この不満を糾合すれば、政権打倒の勢いを作れると考えた。定信が静かに待った挙げ句、ついに幕府の攻め口を見つけだした。
 意次らが、全ての民に広く薄く社会負担を求めたのに対し、定信はその試みを単なる政局の好機と見た。意次と定信の見ている風景が全く異なり、まつりごとの任にある者の格調の違いとなって現れた。
 七月になると雨が多くなり、十二日から十七日まで関東一円で大雨が降り続いた。利根川が大氾濫を起こし、草加、越谷、粕壁、栗橋まで一面の水面みなもとなった。浅間焼けで利根川水系の河川底が高いままに置かれたのは、浚渫しゅんせつでなんとかなるような規模ではなかったからだった。これがわざわいを大きくした。
 江戸の町も江戸開府以来最大級の洪水に見舞われ凄まじい被害を出した。印旛沼では布鎌新田マケ俵口の締切工事や掘割開削工事がことごとく破壊された。四年間の営々たる努力が一瞬にして水に呑まれた。
 騒然たる世相の中、七月下旬になると将軍家治の足にひどい水腫が現われた。八月十五日、家治は感冒のためと称して朝会を欠席し、世子を代理として大名の挨拶を受けさせるほどだった。すでに足腰が立たなかった。
 江戸城内では、大水害や将軍の体調悪化を見澄ましたかのように、白河藩をはじめ帝鑑間詰め十万石以上の藩留守居るすい組合が貸金会所令に抵抗すると示し合わせた。こうした動きは、封建領主の矜持なのかもしれなかった。特に門閥譜代は、藩の枠を踏み越え国中あまねく経済政策を広げたがる幕府の新たな統治手法に反発した。定信がうまく焚きつけた。
 帝鑑間の抵抗は、それだけでなく側用人政治という将軍親政に対し、門閥譜代が上げた烽火のろしでもあった。さらに言うなら、将軍世子になるはずだった将来をられた定信の凝り固まった怨念でもあった。

 治済は将軍世子、家斉をわが手に握って得意の絶頂にあった。虎の子の十四歳だった。これを背景に独自の生臭い動きを開始して、今後の政権構想を御三家当主に働きかけた。将軍の体調を見据みすえれば、幕政を門閥譜代の手に取り戻し、幕府本来の姿を回復する好機だと申し合わせた。
 次期の少年将軍を担ぐのは門閥譜代であるべきで、側用人であってはならなかった。御三卿の一家と御三家が気脈を通じた。大奥、奥医師、小姓の中からこの勢力に取り込まれる者が相次ぎ、密かな動きが盛んになった。
 意次の推挙をえて家治の治療に当たった奥医師は、調合した薬によって却って上様の病を悪化させたと言い立てられ、排斥の憂き目にった。病臥の家治の周りを固め、意次派の者が近づかないよう手配りされた。意次派の医師が毒を盛ったとも噂が流された。愚にもつかぬ噂だが、不安定な時期にそれなりの効果があった。大奥の一部に動揺が走って意次の求心力に悪い影響を及ぼした。
 八月二十二日、意次はそうせざるをえない状況におとしいれられ、病をえたため勤仕に耐えずと届けを出して屋敷に引き籠った。手の打ちようがなかった。
 二十四日、治済ら御三家は、いよいよ家治の脚気衝心が重篤化したことを知って、貸金会所令を撤廃し、印旛沼の開墾を中止させた。政権が力を入れた事業はあっという間に吹き飛んだ。治済ら徳川一門は、将軍家治さえ機能しなければ一気呵成に事を運べると悪辣な自信をもった。
 二十五日暁、家治逝去、享年五十歳。二十六日、意次は家治の死を知らされることなく、老中辞任願を書かされ、翌日、即刻受理された。

 定信は、意次の辞任後、即座に主席老中にいて、新しい政権を発足させるつもりだったが、そう上手くは運ばなかった。幕府は何も、意次一人が独裁的に切り盛りしていた訳でなく、残りの老中らが辞任する理由はなかった。第一、定信が老中に相応しい資質と経験をそなえているとは、仲間内なかまうち以外、誰も認めていなかった。
 通例では、奏者番から寺社奉行を兼任し、大坂城代、京都所司代として行政能力を高め、西之丸老中となって江戸城内の高次の政治を学んで、ようやく本丸老中に到るものだった。下僚の使い方、地方治政の実体、諸大名の扱い方と駆引き、政治力学を見通す感覚を身に付け、初めて幕政を回せるとみなされていた。
 将軍吉宗の孫であるにしても、幕府の何の御役に就いたこともない二十九歳が老中、しかも老中首座とは噴飯ものだった。練達の老中首座、松平周防守康福やすよしは、ある筋から暗にほのめかされた定信の老中任命案をむっつり読んで、書状を傍らにぽんと投げやった。
 大老井伊掃部頭かもんのかみ直幸なおひで、老中松平周防守康福やすよし、老中格水野出羽守忠友の三人は田沼と強く結びついて幕府を主導してきた仲だった。御側御用取次四人の内の二人が田沼派だった。大奥にも意次と結びついた老女が多く、意次が再度、老中に返り咲く芽は十分残っていることが定信にもわかった。

 治済は、打開を図った定信から辞を低くして頼みこまれ、親切げに快諾した。おそらく、これまで定信を操ってきた自負もあり、もう少しこの駒を使うつもりに違いなかった。内心、どう思っていたか、治済を知る者には容易に想像できた。
 治済が御三家と関係を築いておいたのがよかった。治済は一門と頻繁に密談を重ね、あれこれ手を打ち始めた。将軍家の御家騒動を避けるため御三家が幕政に関わることを禁じた幕府の大方針を平然と黙殺した。
 まずは、意次を不埒なる者として罰する形を世に示すため、意次が天明元年と五年の両度に渡って加増された計二万石を審議もなく召上げ、神田橋御門内上屋敷と大坂蔵屋敷を収公した。上屋敷について、わざわざ二日後までに引き払うようにと命じてあった。治済が事前にこの案を示したとき、御三家はその苛酷さに内心驚いたが、かばってやる訳もなく治済案通りの達しとなった。
 治済と御三家は数々の密議謀略を行って、定信の老中就任をはたらきかけた。かつて家重が将軍縁者を幕政に参加させることを禁じた原則が、ここにきて重大な支障となった。定信が家治の養女種姫の実兄であって老中に就くのは上意に反すると根強い批判が起こった。それを将軍実父と御三家の勢いで押しつぶした。
 天明七年六月十九日、定信は老中首座についた。意次辞任から十一か月、ついに定信は念願を果たした。治済と御三家から与えてもらった幸運というほかない。定信は御三家と治済に唯々諾諾と従わざるを得なくなった。
 治済は満足しつつも、定信がどれほどの仕事をするか、一橋家にどれほど役立つか、あざとく見つめていた。

 天明八年(一七七八)八月十五日、意次は蛎殻かきがら町の田沼家下屋敷に蟄居の日々を送っていた。その生活は昨年の十月、罪を得て以来一年近くに及び、その間、全く世間と切り離されて、ひそかに家臣が世上のことなど短く伝えてくれるだけになった。そのわずかな話から、意次が幕府財政の立て直しに生涯をかけて積み上げた実績が瓦解する様を知った。
 南鐐二朱判の鋳造が停止され丁銀が増鋳されることになったという。丁銀をすなら出目は幕府の損となり、通貨流通量を減らさざるを得なくなる。物価を下げるのが狙いらしいが、景気は一段と冷えることになる。四文銭とていつまで鋳造されるか怪しいものだった。民の不便は目に見えていた。
 意次の盟友も惨憺たるものだった。大老井伊直幸なおひでが辞め、老中水野忠友が辞め、老中松平康福が辞めた。
 御側御用取次の本郷泰行と横田のりとしが罷免され、意次の甥、おきむねは病気を理由に依願免職となり事実上、罷免された。これで家斉の側から田沼の息のかかった者が一掃された。実務では、勘定奉行、赤井越前守ただあきらと松本伊豆守秀持が解任され、後日、逼塞ひっそくの処罰が下った。
 定信が、長崎を日本の病の一つのうち、と非難したことを耳にしたとき、意次は定信の本質を見た気がした。
 ――真意は不明ながら、異国と交易し金回りに活況を呈することが気に入らぬらしい
 意次は、御金蔵に蓄えた備蓄金が明和七年に最高高百七十万両を越え、以後、多くの災害復興の財源にあててきたことを思った。残余はまだ相当に残っているが、定信が老中首座となり、この調子で幕府財政を預かれば、間違いなく、早晩、食いつぶすと思った。定信のあの感覚では、財政を立て直すどころか、悪化させるのが関の山だとはっきりわかった。
 ここまでに発展した世に、商売と貨幣と物流を盛んにしてはならないという感覚は明らかに間違っている。武威を重んじ、文を貴ぶあまり、それが現実の庶民の暮らしと大きくかけ離れていることを知らない。
 ――それでは、世が豊かにならぬではないか
 田に実らざる富を幕府に取り込む策を定信が理解できなければ、幕府はじめ諸藩が財政難に陥って、いずれ国中の武士が貧乏に喘ぐことになる。定信にはこの姿が見えていない。意次は、幕府の支配が揺らぐのではないかとさえ疑い、定信政権が早晩、行き詰まるだろうと確信した。
 意次は、定信が老中就任以降、これまでの政策を次々と廃止することにいきどおりを覚え、その都度、無念を奥歯に噛み殺した。それだけではない。意次を、貴穀賎金の武士道を踏みにじって拝金の風潮を招いた男とさげすみ、あることないこと怪しげな話が流布することに違和感を覚えた。
 賄賂を盛大に取った、豪商と結託し私利私欲を図った、素性の正しからざる者を近づけ如何いかがわしい儲け話を取り上げた、など醜聞めいた噂噺がいかに広く市中に広められたかを知った。おそらく、定信が新政権を正当化するため意図して前政権のありもしない悪行話を流すのだと見当がついた。
 意次は七十歳にして蟄居の身、昼でも雨戸を立てた薄暗い座敷に端座して過ごす。図らずも財政立て直しが画餅に帰すことに、亡き家重、家治に深く詫びを言い続けてきた。血を吐く思いの詫びだった。それももう限界だった。もはや力及ばずと思い知ってからは心が空虚になり、張りと気力が急速に失せた。
 家臣が、今宵は中秋の名月だと、夜になって、ひそかに一尺ほど雨戸を開け入側に三宝をおいてくれた。すすきも団子も遠慮した仮のお供えのつもりだろうか、弥左衛門町の薄雪せんべいが載せてあった。そのわずかな隙間から、煌々たる月明かりを見上げ、意次は残る生の短いことを悟った。このところ倦怠感と時折、心の臓に違和感を覚える。
 定信のはかりごとによって、弁明も許されず、おそらく後世に手ひどい悪名を残すだろうと意次は覚悟した。蟄居を命じられ、二回にわたり四万七千石を減知され一万石の領地に戻った。相良の城もことごとく破却され七万坪の更地にされたと聞く。手掛けた仕事と生前の所縁ゆかりを全て消し尽くされることに耐えなければならなかった。
 昨年は惇信院様の二十七回忌と、心観院様の十七回忌だったが、参列は許されなかった。意次は、家重の喃語と倫子の甘い声をもう一度聴きたいと思った。ひとりでに手が合わさって、合掌し瞑目した。倫子の命日はもう五日後に迫っていた。
 ――家治様には、あたかも重き荷を共に担う同志のような御心持を賜った  
 最後まで固い信頼を寄せてもらった感謝の想いだった。家基様に意知を配した体制でなら、目指したことはついに完成したはずだったものをと、還らぬ繰り言を思った。
 家治を思い、家基を偲ぶうち、不思議と己の人生が幸福だったと思えてきた。雨戸の隙間から月の光を浴び、幾度、月を仰いで考え事をしてきたか、七十年を振り返って、意次は穏やかな笑みが静かに浮かんでくるのを感じた。締め付けられるような胸の違和感も余り苦しいとも思わず、意次はゆっくり意識がくらくなるのを感じた。
 天明八年(一七八七)八月二十四日、意次逝去。世の賑わいと豊かさを目指した時代がはっきり終わった。

(完)


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