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連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第四章六節



第四章 蟲喰むしばまれる樹




六 天地荒ぶる


 天明二年(一七八二)明けて早々、大変なことが相次いだ。二月には大風雨が各地を襲い、近畿一円から加賀がやられた。五月に四国、八月に九州、伊勢と大きな被害が相次いだ。春から秋にかけて西国は洪水で散々な目に会った。
 大風雨だけで終わらなかった。七月十五日、江戸の町は、した残暑の夕刻、長屋の人々が縁台に端居はしいして日暮れの涼しさを待っている頃だった。団扇うちわを使ってくつろいでいると、にわかに大地が揺れだし、壁はふるい瓦は落ち、戸障子は打ち倒れた。頼りなげな小家は見る間に倒壊し、その前で地割れが走った。百歳の故老が、八十年前の元禄大地震以来、かくも激しい地震はなかったと語った。

 凶報相次ぐなか、意次は勘定奉行の松本伊豆守秀持から、印旛沼の水路開削工事計画の現状を聞いた。検見川村までの堀筋を決め、周辺村の同意をえたのち、金主となる浅草の長谷川新五郎と大坂の天王寺屋藤八郎らの視察が首尾よく済んだという。工事によってひらかれた新田の八割を金主が取ると約定が成り、幕府直営で工事を進めることとした。鍬入れは来る八月の予定である。
 意次は、いい水路ができると期待し機嫌よく印旛沼の話を聞き終えた。意次が一呼吸をおいたのを見て、松本は話し始めた。
「御老中、お話を聞いてはいただけませぬか」
「面白きことでも考え付いたか」
「はっ。長崎の件にて、考えましたることがございます」
「聞こうか」
「はっ。明和五年のことにございます……」
 松本は、十四年前の経緯を話し始めた。当時、若年寄だった松平摂津守忠恒ただつね(上野小幡藩二万石藩主)が外航船の建造を許して日本人が外国に渡航しやすくし、合わせて異国から人を日本に誘致したらどうかと提案した。もちろん、ごく限られた幕閣の中での話だったが、驚くべき内容だった。
  寛永十二年(一六三五)の海外渡航禁止令及び帰国禁止令を見直せというに等しく、百三十年続いた国禁を解いたらどうかという提案だった。もはや異国から入ってくる切支丹が広まる恐れなく、むしろ異国の技術と学問を知るべき時期に到ったというのが摂津守の考えだった。
 その直後、摂津守の死去によってこの話は立ち消えとなった。それは松本が勘定組頭に昇進した直後のことで、松平摂津守と結んだある縁で松本は知っていた。
 当時、側用人だった意次も、大きな関心を持っていた。松本は、この策を再び取り上げて外航船を建造し、将来に備えたらどうかと進言した。当時は時期早尚だったが、今やこの話は機が熟したと松本は言った。
「狙いは何か」
「第一は、遠き狙いにして真の狙いにございまする。御公儀の仕切る異国貿易の開始を目指しまする。海外に出て唐と阿蘭陀おらんだ以外の国とも通商すれば大きな利が見込め、幕府財政は潤いまする。天災によって、蓄えた金銀が減ってしまうのちの事もございまする」
「ふむ」
「第二は、大坂から長崎に竿銅を運ぶ和船の海難が増えてございまする。西洋帆船なら荒い波にも耐え、重い荷を運べまする」
 松本は、和船一艘に一万二千貫(四十五噸)もの竿銅を積んで海難に遭ったときの損失の大きさに触れた。この年、すでに何艘かを失っていた。
「第三は、異国船が我が海岸や島にて無法な挙に出た時の備えにございまする」
 松本は、明和八年、魯西亜ろしあから逃れて来たハンベンゴロなる異国人が阿蘭陀おらんだ商館長に与えた書状に触れた。そこには魯西亜が蝦夷地を窺っているから護りを整えたほうがよいと強く警告してあった。
「手立てはいかがじゃ」
「まず、長崎奉行を通じて、西洋帆船の船大工を派遣するよう阿蘭陀商館長のチチングに頼み入れまする」
「……」
「派遣されたときこそ、西洋帆船の建造法を日本の船大工に習わせまする。併せて船頭、水夫に操帆を学ばせまする。西洋帆船は帆が多く、綱にて帆掛ける技が和船よりむずかしゅうございまする」
 意次は、しばらく瞑目し考えを巡らせる様子だった。
「面白いではないか。まずは、寛永の禁令に触れる話は避け、竿銅運搬船という名目で、調べを進めよ」

 この年の大雨によって、米もさることながら、西国は綿わた作に大被害をこうむり、畑に実る銀が一気に失われた。この地方では綿を作り、綿を売って得た現銀で米を買って年貢米にだすほどだった。現銀収入が無くなれば、年貢を払えないと騒ぎが始まり、和泉の一橋家領内の五十四か村で大騒ぎになった。
 一橋家当主が何かできるはずもなく、幕吏が汗だくになって不穏な動きを鎮めに走った。年末になって騒ぎは尼崎藩へと飛び火し、容易ならざる状況になってきた。民は命がかかっていた。
 明けて天明三年(一七八三)二月、いよいよ騒ぎは広まり、町の人々が米の廉売を要求して、大坂、京都では打ちこわしに走った。泡を喰った大坂米商人は、奥州、東国から急ぎ米を回送するよう幕吏に嘆願した。
 大坂商人から借金を抱える奥州、東国諸藩は米を送るよう迫られ、国元との間に飛脚が飛び交った。大坂商人は何が何でも米を手にいれようと、なりふり構わなかった。奥州、東国諸藩に余剰米があれば大坂の米市場で高値の取引ができた。その分、奥州、東国では米の在庫が減っていった。
 春から霖雨となった。晴れ間はさっぱり見えず、来る日も来る日もしとしと降り続いた。雨のなか、四月から浅間山が噴き始め、五月になると大きな噴火が始まった。
 江戸では六月、大雨で千住、浅草、小石川辺りが出水となり、大川端の柳橋が落ちた。小日向の大洗堰の石垣が崩れ神田上水が切れた。江戸の町の北半分は井戸の水が涸れた。
 七月に入って浅間山は噴火を続け、付近一帯は火山灰で夜の様に暗くなり、昼でも外出に提灯が必要だった。すでに積もった灰と雨が混じり、ひどい泥の海となった。碓井峠には降灰六、七尺(二メートル)が積もって中山道は閉ざされた。
 その雨が止んだ七月八日、打って変わって青空がのぞいた。久しぶりに村人が晴れ上がった天を見上げた巳の刻(午前十時)浅間山が大音響とともに凄まじい大爆発を起こし、噴煙はあっと云う間に高さ三百丈(千メートル)に達した。大音響は、北は佐渡島、南は八丈島まで聞こえたと、後の調べでわかった。
 火口から溢れ出た溶岩が北斜面を流れ下り、土砂を巻き込んだ火焔の大激流となって流れ落ちた。その鳴動によって下流に発生した土石なだれが鎌原かんばら村を村ごと瞬時に呑み込み、激流の勢いが少しも衰えないまま、鹿沢口で吾妻川の谷に轟々ごうごうと流れちた。土石粉塵で辺り一帯の視界は暗くとざされ、深い吾妻川の谷筋を流れ下る泥流は少しも途切れなかった。
 泥の奔流は翌日昼前に江戸川下流に達し、どす黒い激流が沢山の屋根、流木,流死体を流していく光景が堤の上から見えた。目の前の惨状に、人々は涙を流して手を合わせた。最後は河口の行徳浜に至り、何もかも諸共もろともに江戸湾に流し込んだ。
 幕府には全国から水害、打ちこわし、噴火、火砕流、降灰被害など凶報相次ぎ、幕閣、幕僚は、江戸中に降り注ぐ細かな降灰に悩まされながら、対応に忙殺された。
 秋から冬を迎え、浅間山から吹き上がった細かな灰は日照をさえぎって、連日、東国に薄暗い日々をもたらした。昨年から続いた不作がこの年はさらにひどくなって完全に収穫がなくなった。すでに大坂に米を送った藩があり、もともと米の備蓄の乏しい藩が多かった。
 飢饉が最悪の状況となって、奥州諸藩に目をそむけたくなるような惨状が広がった。雪の奥州路には飢えた彷徨者が群れをなし、かたわらに行き倒れのしかばねが瘦せ細ってうち重なり、その上に少しずつ雪が積っていった。

 師走の十九日、江戸は朝から雪が降り、町がうっすら白くなった。白くなるにしても灰でなく雪だったから、まだしも風情があると思うしかなかった。そんな時分、北八丁堀、白河藩十一万石の上屋敷を訪れる者があった。
 家臣から来客を知らされ、定信は来訪した大目付、大屋遠江守明薫みつしげを丁重に奥座敷に通すよう命じた。定信は、ほんの二か月前、養父から家督を継いだばかりだった。
 定信は座敷に着座し、平伏した大屋が懐かしそうに挨拶するのを聞いた。大屋は安永四年(一七七五)八月まで田安家の家老を勤め、大目付に転じてもう八年が経った。定信にとっても、田安にいる頃、じいじいと親しんだ日々が懐かしかった。少しも変わらぬ重厚な声音こわねで挨拶するのを聞きながら、あの頃のことを脳裏に浮かべた。
 大屋のあと川井が家老に任ぜられ、二か月で死んで次は石谷がやって来た。
 ――あの頃は、田沼の息のかかった者が次々、我が家の家老に入り込み、母を説得した挙げ句、ついに余は実家を出された
 当時のことは、今でも痛みを覚える記憶だけが残る。妹の種姫が将軍養女となって大奥に移っていくのを見届け、定信は、すっかり人気ひとけの薄くなった当主のいない田安邸をあとにした。皆が悲涙を涙して見送られる出達だった。
 それは田安家に与えられた特権全てを定信がうしなう門出だった。歯ぎしりするような無念を感じたのは、家基が死んだときだった。
 ――あの時、余は二十二歳。田安家から養子に出ずにおりさえすれば、将軍世子に最も近い立場にいたはずだった。余は養子に出され、意次によって将軍の芽をられた
 同時に、意次を手助けした稲葉正明まさあきらへの怨みもよみがえり、拳を握りしめたところを、大屋の声で現実に引き戻された。大屋はかなりの歳だが、ますます威厳を身に付け、大名の非理違令をとがただす大目付の職がすっかり板について見えた。
 大屋は、時季を見て、挨拶のため律儀に来訪し幕府の動きなどを伝えてくれるから、定信は懐かしむ以上に、大屋を大切にしていた。この日も、昨年から続く不作が今年は浅間焼けのためにますますひどくなったことが大きな話題となった。幕府の救荒対策、米相場の上げ下げなど世上の動きを教えてくれた。特に、幕府は救済金がかさんで三十万両の赤字になり、三日前、七年間の長期倹約令を発令したことは耳新しかった。
 定信にしても他人事ひとごとではなかった。八月、国元の白河で飢饉のために打ちこわしが起きた。手を打たなければ容易ならざる事態になるのは間違いなかった。定信は世継ぎの立場ながら、素早く江戸家老を呼び寄せ策を練った。日下部くさかべ武右衛門、御留守居百三十石を担当に任命し、要路に当たらせた。
 九月六日、定信は、日下部の働きの甲斐あって、会津藩主松平容頌かたのぶから米一万俵の融通を受けることに成功した。しかも降雪の前に会津藩が藩領内を運搬してくれるという。
 会津藩とて余裕のある筈はなく、昨年以来、五穀は熟さず、社倉から非常用の籾を領民に頒布しなければならない窮状にあることを知っていた。定信は、会津藩が将軍家に固く忠誠を誓った藩だから、田安家出身の己の願いなら、むげには断れまいと踏んだ。まさに読みが当たった。定信は、土産を持参して藩主になったようなものだった。定信は会津米だけで満足せず、可能な限り米を求めてほかの要路にも手を打った。
 大屋との会話で、浅間焼けと飢饉の話が一段落した。定信は、躊躇してなかなか口にだせなかったことを、思い切って大屋に尋ねてみた。
「田沼をどう思うか」
 定信は田沼を憎む心が強いが、かといってその感情のままに大屋にぶつければ己の器量を見透かされそうで、気後れする気持ちがあった。
 大屋家は田沼家同様、紀伊藩家臣として吉宗に付き従って幕臣になった家系である。紀州閥の一員と遇され、悪い扱いは受けていないはずだった。大目付として三千石の禄を賜り、待遇は万石級。父親の代に三百五十石、明薫みつしげの代に加増三百石を賜わり、下野国都賀つが郡に采地を持っていることを定信は知っている。大屋が、紀州閥領袖の田沼を悪く言うとは思えなかった。
 定信が突然田沼への気持ちを尋ねると、大屋は困惑を隠すように、それでいて、定信の真意を見定めるように、黙って強い視線を返して寄越した。
「先月、御嫡男山城守やましろのかみ様が若年寄にご就任なされた件でしょうか」
「うむ。それもある」
「あまりに異例なる御沙汰。幕臣には驚く者が多くおりまする。御部屋住みの身で奏者番になられたときも驚きが広がりましたが、それから二年で、あろうことか、若年寄とは、と驚きあきれ果てる者が多うございます」
 大屋は、ひとくさり幕臣の辛辣な世評を紹介し、再び強い視線を寄越した。定信は、大屋が微妙に自身の意見を伏せたことに気付き、やはりな、と思った。
「続けよ」
「近頃は、武士もののふらしき武士ははやりませぬ。算勘に富んだ切れ者が立板たていたに水の如く、口説くぜつを説くのを喜ぶ風でござりますれば、山城守殿の若年寄任用も幕府の方針には沿うておるのでございましょう」
「そうよ、文もさることながら武を忘れては武士ではあるまい。商人のまねごとに走るようでは武士の名折れぞ。田沼のまつりごとは、そこがあぶのうて見ておれぬ」
「はっ」
「いつとは言わぬ。どうせよとも言わぬ。ただ田沼のあとの幕府の姿形を考えよ。徳川武士の初心を想い起こせ。これぞ大目付の役目ではないか」
 定信は、珍しくたかぶった言い方になったことを自覚した。大屋は、これ以上、突っ込まれたくはないのだろうか、そわそわと辞去の機をうかがい始めた。この種の話柄は聞きとうありませぬとあからさまに言われたように思え、定信は、大屋がもの足りなかった。もう少しこのじいを、き付けなければならぬと思った。
「まあ、ゆるりとせよ。そなたの健やかなる日々の様子など、聞きたいものじゃ」
 大屋家の何気ない日常を和やかに尋ねた。大屋の嫡男は早逝したため、大屋家を継ぐのは孫の明矩みつのりだった。つい十日ほど前、明矩が十六歳にして、初めて将軍の目通りを許されたことを定信は知っていた。素知らぬ風で孫のことを尋ねてやると、さすがの大屋も好々爺こうこうや然と目を細めて御目通りの様子などを語った。ただ心配は、頼れる親類縁者が少ないことだという。
「孫一人残されたあと後見してくれる御仁のいないのが心配にございます」
 最後にぽつりと言って黙った。それを見逃さず定信がすかさず応えた。
「何を言うておる。わしがおるではないか」
「ははっ。ありがたき御言葉。そう言っていただき涙がでるほど嬉しゅうございます」
 定信には、たしかに大屋の目が柄にもなく潤んでいるように見えた。 

 大屋は、帰途、駕籠の中であれこれ考えた。定信の意次を憎む心根がわからないではなかったが、憎むなら、意次より、当時、老中首座だった松平武元たけちかではないかと思う気持ちもあった。松平武元亡き今、恨みが意次に向けられたのなら、意次に気の毒だと同情した。大屋は大目付の職にある身だから、老中らが定信を養子に出した幕府の事情をよくわかっていた。
 大屋は大目付の職に満足している。幕府に大きな不満を持つわけではないが、田沼主導のまつりごとに心服できないところもあった。田沼は、武士のありかたを変えようとしているのか、変えなければできないことを達成しようとしているのか。
 ――いずれにせよ、当今の武士は随分と変わってしまったものよ
 幕府でも番方より役方が加増、栄転が多く、ひどく銭勘定にうるさくなった風潮がその表れの一つである。大名とは能吏が才覚働きを尽くしてなるものでなく、武士もののふが武功で勝ち取るものだった時代はよかった。近頃は、才覚で大名になれるものだから、幕臣も才覚を競う風がはびこり、かつての骨太い古武士の気骨はどこにいったのだろうかとよく思う。
 大屋はこの気持ちを公憤だと考えていた。算勘と帳簿付けに巧みな役方の幕吏が真の武士とは思えなかった。貴穀賤金のおしえも、近頃、聞くことさえ稀になった。
 定信に話しはしなかったが、長崎奉行が阿蘭陀おらんだ商館長に、ある一件を依頼したという噂が気になっていた。長崎奉行は、異国帆船を造る船大工と操帆水夫を爪哇じゃわから長崎に派遣してくれるよう要望したのだという。当然、意次の意を受けてのことであろう。
 大坂から長崎に竿銅を運ぶ船が、相次いで海難事故を起こすため、異国人から教わって異国仕込みの頑丈な帆船を建造するとの触れ込みである。主に田沼山城守が担当しているとも聞いた。若年寄に就いたばかりで初の大仕事という訳らしい。
 大屋は、この計画が竿銅運搬にとどまるなら、それはそれでよいと思った。海難事故が減ればいいに決まっている。
 ――ただ、西洋帆船を持ち外洋航海をやれる技を持てば、現行の海外渡航禁止令や大船造船禁止令が邪魔になって、禁令が切り崩されることはないだろうか
 禁令の扱いによっては、大目付たる己の職分に関わるではないかと漠然たる不安を感じた。海外貿易の利を求める余り、長きにわたって厳守された渡航禁令を軽視し、廃止を企てる動きが万が一にもあるのなら、大目付として黙認していいはずはない。
 とは思うものの、大屋は、下手に政治向きのことに関わりたくはなかった。七十一歳の老躯を押してお役に就いているのは、無難に勤め上げて穏便に家督を孫につなぐ望みゆえだった。
 今は、西洋帆船建造計画が明らかにされたわけでもなく、積極的に異を唱えようもない。なにか動きがあった時は、それなりに大目付の勤めを果たすべきなのだろうと己の立場を考えた。
 ――そうなれば定信様の意にもかのうのじゃ
 大屋は、たとえ定信が公平を欠いた田沼嫌いであったとしても、旧主筋に忠を尽くし、武士もののふ古来の心根を持つ本当の侍として死にたいと心から願った。




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