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連載小説 『将軍家重の深謀-意次伝』第四章七節


第四章 蟲喰むしばまれる樹
 


七 辰年、みたび巡る


 天明四年(一七八四)甲辰きのえたつの歳が明けた。奥州では、いよいよ飢饉が本格化し、死者がおそろしいほどに累積した。一方で西国はむしろ豊作といってよかった。国内流通さえとどこおらなければ、奥州もこれほどの惨状に陥らずに済むはずだった。幕府は奥州諸藩に救援米を送ろうと考えたが、冬の荒れる北の海に船をだそうという船頭は一人もいなかった。海運で米を届けるには遅すぎた。
 それだけでない。浅間山の砂礫灰が関東一円に降り積もり、田畑からけなければならなかった。大噴火直後から営々と力仕事が続き、関東の藩の負担は極限に達した。各藩の過剰負担は幕府が懸命に支援した。金はいくらあっても足りず、幕府御金蔵の収蔵金がどんどん減っていくのもやむをえなかった。
 火山灰は大地に降っただけではなかった。川に降り、雨のたびに大地から川に流れ込んだ。普段の川の水位が高まり、川底が高くなったのは明らかだった。わずかの雨で洪水が起こると懸念された。印旛沼周辺では、少量の雨でも危なくて工事どころではなくなった。工事の一時中断もやむなしと考えるほかなかった。
 米の在庫は十分なのに不当に値を釣り上げる商人が横行し、その影響で民の買値が高騰し始めた。閏一月十六日、幕府は米穀の売惜しみと買いだめを禁止する旨、関東、陸奥、出羽、信濃諸国に発布した。飢饉で多くの人が死んでゆく災厄をいいことに一攫千金を狙って、買占め、売惜しみに狂奔する商人に幕臣は強いいきどおりを覚えた。
「つくづく、商人あきんどは卑しき者なのじゃ。おおやけを思わず、民、百姓の難儀に少しの情けも持たず、己一人が肥え太る。人にあらずじゃ」
 こうしたところに、驚くような噂が飛んできた。白河藩では家臣を上方に派遣して、米六千九百五十俵を買占め、すでに国元へ搬入したという。抜駆ぬけがけの米の買占めが成功すれば、米は騰貴し、商人はますます買占めと売り惜しみにはしって健全な流通が阻害されるのはわかりきっている。
 これほどの買占めをやれば影響が小さい筈はない。発令間もない禁令を黙殺するごとき大胆さに幕臣は唖然とし、藩主松平越中守定信が田安家出身だからこそ、幕府を恐れる風もなくやれることだと態度を硬化させた。白河藩の抜駆けが飢饉を人災に変えた。
 当然、大目付の大屋も定信の動きを耳にした。大名の監察糾弾を本務とする以上、白河藩の買占めは職掌に関わる。大屋は大いに困惑した。この手で越中守様をとがめることなどできるはずがないと思った。大屋は、同僚が白河藩のやり方に不信を抱き目付御用部屋で、ひそひそと話を交わすことに気付いた。
 数人の大目付が、白河藩はしからんと声を上げた数日後、大屋は一橋治済はるさだから一人の同僚に書状が届いた噂を耳にした。注意深く御用部屋の動静をうかがっていると、幾人かの同僚が密談を重ねているようだった。ある日、大屋は、白河藩のことは黙許せよと耳打ちされ、大目付の皆が皆、牙を抜かれたように静かになるのを目の当たりにした。
 いかなる内容の書状だったにせよ、将軍世子の実父の立場が幕府高位の幕僚たちを黙らせたと思うしかなかった。いつの間にか、白河藩の禁令破りが幕臣の口の端に上らなくなったことに大屋は気付き、驚くとともに、心の底で安堵した。
 ――此度の一件、一橋様は越中守様をかばうようにも見受けられる。一橋様は好意や酔狂でこのようなことをやる御仁とは全くもって思われず、越中守様にかりそめの好意を見せて、実は利用するため首根っこを押えにかかっているのではあるまいか
 大屋は、何か恐ろしいほどの陰の力を感じた。到底、己の及ぶところではない。

 十日ほどもたって、大屋は佐野善左衛門なる新番の者から、是非お会いしたいと書状を受けた。大屋は善左衛門の父親、伝右衛門と面識があった。善左衛門は、代々、番方を勤める家系に生まれ、三年半前、大番から新番に移った。二年前、父親が致仕し、善左衛門が下野国都賀郡つがごおりの采地五百石を襲封した。大屋も都賀郡で采地六百五十石を領するから、何かの折は佐野家とそれなりの近隣領の付き合いがあった。
 大屋は、善左衛門が、たしか早世した嫡男の一回り下の丑年生まれだったと思い出し、二十八歳のはずだと思った。善左衛門が生まれた時は、伝右衛門が、九人の娘のあとに待望の嫡男を得たと泣いて喜んだことを覚えている。そんな縁もあったなと思い、大屋は僅かの時間、城中で会ってやった。
 対面の座で、父親は息災かと大屋が聞いてやっても、善左衛門はわずかに答えるのみで少しも話が流れない。唐突に今のまつりごとについて、御教えをいたいと生硬な口調で頼み込み、あらためて屋敷の訪問を願い出た。大屋は自邸に迎えるほどのこともないと思ったが、善左衛門には、何か断れないほど切羽詰まった感じがして、やむなく願いを受けてやった。
 それから数日後のひどく冷える夕刻、大屋遠江守明薫みつしげの屋敷を訪れる者があった。新御番三番組、蜷川にながわ相模守配下、佐野善左衛門政言まさことと名乗り、面会を求めてきた。
 善左衛門を座敷に通し、しばらく待たせて頃合いを計り、大屋は座敷に入った。
「城中にてお会い賜り、ありがとうございました。いささか性急な申出でございましたが、快く訪問をお許し下され、恐悦に存じます」
 大屋は善左衛門から簡単な挨拶を受け、領地のこと、父親のことなどを穏やかに聞いてやるつもりだった。世間一般の挨拶と世間話をしたがらなかったのは善左衛門の方だった。心に思いつめたせいか、いきなり本論に入り、大屋は当今のまつりごとに痛憤する激論に巻き込まれた。
 大屋の私邸で他人の耳を気にする必要がないためだろう、善左衛門は、番方より役方が重んじられる幕府のやり方をひどく難じ立てて、当然、そうした風潮は成り上がりの田沼の一派が唱導し、それに上様がたぶらかされているという論調に発展した。しまいに、善左衛門は口角泡を飛ばす勢いとなって言い募った。
狼狽うろたえるなっ」
 大屋は、善左衛門の口説くぜつが熱を帯び常軌を逸するころ大喝した。大目付の威ある一喝に、さすがにしゅんとなって善左衛門は押し黙った。しばらく沈黙を守り、心を落ち着かせたかに見えた。
「たいそう御無礼に及びました」
「うむ。頭を冷やし、心を鎮められたか」
「ははっ。落ち着きましてございます」
「されば、静かに申せ」
「申し上げます。武士とは、主君より采地を賜わり、それに酬いるべくいのちをかけて仕える者。忠の心をもって主君のめいを執りおこのう者でございます。下命はいのちでこそ受けるもの」「その通りじゃ」
「されば、長年お仕えした家臣ほど忠の家風が濃く、世を憂うる慨嘆が深く、いのちをかけてめいを成し遂げまする」
「佐野家ほどお仕えの長い御譜代は、そう多くは見当たらぬのではないか」
 大屋は、善左衛門に花を持たせてやろうと一言を添えた。
「積善院様にお仕えしたのが始まりでござれば、安祥譜代に次いで古うございます。ただ古ければいいという訳でもなく、大切なのは、なにより上様を思う忠の心にございます」
「御立派じゃ」
 善左衛門は、佐野家が徳川家康の祖父清康の代から仕えた家であることをさり気なく述べ、忠を口にした辺りから眼が爛々として、再び体全体から熱が発するようだった。
 ――甘やかされて育ったのであろうよ
 すぐに熱くなるのは、女九人のあとに生まれた末っ子の嫡男で、待てしばしのない我儘者わがままもののためだろうと大屋は思った。
 善左衛門は長々と語ったが、要するに古くより仕えた譜代の家では、武士の心根を固く守り、いつでも主君のために命を捨てる覚悟があると言いたいらしかった。真の武士が番方に仕えているのに、役方の算勘達者どもが重く用いられ、真のまつりごとがどこかに持ち去られたようだとも言った。
「拙者は、何が嫌いと言って、才覚者ほど嫌いなものはござらぬ。算勘達者の才覚で真のお役目は果たせませぬ。銭勘定ではいのちを賭す働きは成しがたいからにございます」
 善左衛門は今の世に合わせられず、日の目を見る地位につけないことに不満を感じているのだろうと、大屋はおおまかに見当をつけた。激烈な言い方は全く的外れの妄言だと思った。
 真の武士こそ崇高な存在である、主君のためなら喜んで命を捨てる、まつりごとが壟断された世を変えなければならない、などと述べ立てる激越な物言いを聞くと、不穏な企てを抱いているようにも見え、次第に不気味な印象が募った。善左衛門の口吻に、常人では理解しにくい狂気のきざしを感じた。 
「何か御志おこころざしがござるのか」
「そこなのですっ。拙者はこのような気持ちをいだきおりますが、何をしたらよいか、よくわかり申さず、遠江守様に御教示いただきたく伺った次第」
「はて、何かを成し遂げたいと……」
 ここまで話が進むと、不図、そら恐ろしい考えが浮かんで、大屋は慌てて内心これを打ち消した。熾火おきびに灰をかぶせて埋火うづみびにするような気がした。大屋は、気付かれないよう一回深く息を吸うと、ゆっくり小さな声で語った。
「善左衛門殿が国を憂う誠をもって、上様のためによかれと思うことを忠の心で成し遂げるのが真の武士というもの。今、御自身が申された通りではござらぬか」
 大屋は、この言葉に一滴の毒を含ませた。はたして善左衛門に気付かれるか、内心、緊張して身構えた。
「国を憂う誠をもって……」
「さよう」
「上様の御為になるよう拙者自身が考え……」
「さよう」
「命を賭してこれを成し遂ぐる……」
「さよう」
 善左衛門は、しばらくじっと考え、やおら何事かを悟ったかと見えた。
「死を鴻毛のかろきにたのしみ、義を泰山の重きに置くたとえにございまするな」
 芝居の台詞せりふを引き合いにして納得がいったのか、顔つきが明るくなって、一礼するやそそくさと帰っていった。大屋は、一滴垂らした毒が効くか効かぬか、なるようにしかなるまいと思った。
 ――死を恐れず義に殉ずるとうそぶきおったが、どうなることやら……
 淡々と見守るだけだと思いながら、狂気の飛沫しぶきを浴びてわが身が疲れ果てたことにようやく気付いた。

 十日ばかりたったある夕暮れ。佐野善左衛門は、田沼山城守意知の屋敷にいた。意知は前年十一月、若年寄になったのを機に、父親から築地の中屋敷を譲り受け、屋敷の増築普請に入った。それもほとんど終り、善左衛門は木の香の香る座敷に通された。ごく簡素な造りだった。
 新番は若年寄の支配にあるから、善左衛門は上司の新番組頭、蜷川にながわ相模守の伝手つてをもらい、この日の訪問となった。善左衛門に取って、意知は普段会えぬ上の上の、そのまた上の上司だった。善左衛門は、意知の若年寄就任挨拶の席で広座敷の後方から、遠く顔を見ただけだった。話したことなどあるはずがなかった。
 意知が座敷に入ってくると、善左衛門が拝礼する上から、語りかけてきた。
「まあ、さようにお堅くなさらずに。新番の方々にお世話になっておるのは、手前の方でござる」
「ははっ」
「春も巡り、よきお日柄となりました。さて今日は、いかなる御用にございましょう」
 善左衛門は、気取らない口調で気さくに語り掛けられ、内心、ひどく驚いた。顔を上げると、明るく柔和な笑みに出会った。これはいかんと、心を引き締め、ようやく話をする心の準備を整えた。
「近頃、幕政が乱れているのではないかと気にかかり、世を憂う誠をもって山城守様をお訪ねいたした所存です」
「ほう。幕政の乱れとはいかなることでしょうか。是非、お聞かせください」
 意知の丁重な態度に、善左衛門は、意知とはこのような人物だったのかと再び驚いた。下僚にまでこうした丁重な態度をとるのかと思い、一回、唾を呑み込んでから持論を話し始めた。語るうちに、どんどん調子が出てたかぶる気分に満ちあふれた。なぜ役方ばかりが重んじられ、番方に活躍の場がないのかと善左衛門がただすと、意知は柔らかい口調ながら、言下に否定した。
「そのようなことはありませぬ。番方は役方とともに上様の大切な御家来衆。ただ戦がないため昔のように武威を華やかに輝かす場がすくのうございます。今は戦なきき世となって久しゅうございます。なればこそ上様は、鷹狩り、遠駆け、弓射、馬術など武術を盛んに催され番方の方々の活躍と修練の場を設けておられます。そのあと、優れた方々に必ず褒賞の品々を賜うのは、番方衆を重んずるお心と聞き及んでいます」
 善左衛門も放鷹に付き従ったことはあるが、武技は不得手で褒賞など賜わったことはない。軽くいなされた気がした。
「されば、古くからの譜代がお役に就けず、活躍の場がないのはいかが思われますか」
「古くからの御譜代衆は忠に篤く、上様の頼りとするところ。されど世に合った御役に就けぬときもございましょう。仄聞そくぶんするところでは、大坂西町奉行の佐野備後守政親殿は、近頃、融通御貸付制度の策を立てられ、大名方に御資金調達の道を開かれたとか。勘定奉行所でも評判となっており、立派な御役方のお働きと感服仕ります。善左衛門殿の御親族ではありませぬか」
「我が家の三代前の当主は、あの家から養子に参りました」
「御縁戚から優れた御役方が世に出られ、善左衛門殿は武威豊かに新番をお勤めです。古き御家柄の佐野家はかように栄え、人にうらやまれる御一門でございますな」
 これまで善左衛門は、縁戚の政親の活躍を耳にするにつけ、その功績の意味もわからないまま、役方の算勘侍と嫌ってきた。意知の褒め言葉に却ってねたみと怒りを掻き立てられ、さらに激しい発言が口を突いて出た。
「ごく新しくお仕えした者が、御側近くの勤仕故に上様の覚えめでたく、どんどん破格の昇進に及ぶ世をいかがお考えですか。大名当主でもない者が奏者番に任ぜられ、若年寄に昇進するのは、あまりに先例をないがしろにした人事と御覧になりませぬか」
 ここまで言っても、相手は顔色一つ変えず、温顔に笑みを浮かべているのを見ると、善左衛門はさすがに言い過ぎたと思った。
「我が田沼家のことですな。おっしゃるとおり、新参の身分低き者が破格の抜擢を受け申しました。さぞや、古き御家の御譜代衆は面白おもしろうない思いでおいででしょう。されど、我ら、懸命に働き、上様に見ていただいた上でのことですから、御役をお受けしないわけにもいきかねまする」
「家臣に大切なものは、古き家柄、長きにわたる忠節、危機に及んでひるまぬ武威ではありませぬか」
「田沼家では、そうしたお勤めは不得手です。我が家では、家柄も武威も取るに足らぬもの。それこそ、御譜代衆皆様の名誉ある御家芸にございましょう」
 意知は、田沼家がかつて都賀郡つがごおりの田沼村から出た低い身分の家系で、佐野家の家来筋だったかもしれないと淡々と笑みを浮かべて語った。善左衛門は、あっけらかんとおのが出自を語る意知の口調に、佐野家の家系を軽く見られた敗残の気分を味わった。二百年以上も前のこと、どうでもいいではないか、と言われたのも同然だった。格の違いを歴然と感じた。
「されば、田沼家はいかなる道でお勤めなさるのでしょう」
「そうですなあ、我が家では、気働きと才覚でお勤めを果たします」
「なんと、気働きと才覚とな」
「古き家柄でもなく武威に長けた家風でもござらねば、これが我が家のお勤めの道かと」
 善左衛門は不機嫌にむっつりと押し黙った。己が気働きの利かない不才の者と面罵され、それ以上に家柄と武威の価値が踏みにじられたように思えた。とうてい口でかなう相手でないと知った。
 ――かなう道は外にあるわ
 心で毒づきながら、さっさと辞去した。心は固く決まっていた。大義を泰山の重きに置くのじゃとつぶやきながら帰路を急いだ。

 天明四年(一七八四)三月二十四日昼過ぎ、中奥の上御用部屋で老中と若年寄の打ち合わせが終わろうとしていた。議題は、浅間焼けの復興計画と飢饉に苦しむ奥州諸藩の支援策の件だった。議論が終り、老中首座の松平周防すおう康福やすよしが閉会を宣すると、初めに老中四人と老中格水野豊後守忠友が席を立った。
 意知にとって、実父と岳父は老中、老中格の水野は弟の養父だった。意知は、三十六歳の若手。若年寄となって半年と経っていない。出しゃばらないよう会議中は努めて発言を控えていた。ただ時折、山城はどう思うか、と名指しで意見を求められ、試されているのか、育てられているのか、いずれにせよ、気を抜けない時間だった。
 会議中は出席者の発言を一言も聞き漏らさず、言外の意を汲み取る緊張を強いられた。老中の退席を見届け、廊下の向うの小庭に目をやったとき、大きな庭石の脇に一叢ひとむら菖蒲あやめが目に入った。意知は鮮やかな紫の花弁にほっと心のなごむのを感じ、午後に取り組む仕事を思い出した。毎日、多くの仕事をこなし充実した日々を送っていた。
 若年寄たちが月番を残し、次々と退席しはじめた。意知は、米倉丹後守昌晴と連れ立って座敷をでた。米倉は五十七歳、父親ほども年が上だが、何くれとなく意知に親切に接してくれる親密な先達だった。意知は米倉と談笑しながら、新番所前廊下を通った。
 この日は新番三番組の直日じきじつで、組頭蜷川にながわ相模守親文の配下五人が新番所に詰めていた。その内の一人が佐野善左衛門だった。廊下の先の中之間には大目付、勘定奉行、普請奉行、町奉行、目付、新番六番組頭ら十七人ほどが居合わせた。
 二人が中之間に到るあたりで、佐野善左衛門が血相を変えて、やおら立ち上がり、申し上げます、申し上げます、と繰り返しながら小走りに意知の後を追った。中之間に入るや、善左衛門は背に隠し持った小刀で意知の肩口に抜き打ちに斬りつけた。
「むぅ」
 意知の尋常ならざるうなり声を聞いて米倉が刃傷に気付き、善左衛門を取り押さえにかかった。善左衛門の強い力で無造作に一搏ひとうちされて無様に突き倒された。意知は肩から背に鮮血をしたたらせ桔梗之間に逃げた。それを見た太田備後守資愛すけよしは駆け戻って止めに入ったが、善左衛門の鋭い太刀風に思わずひるんだ。
 二の太刀を振り上げた善左衛門が、ついに桔梗之間で意知に追いすがり両脚を払うと、意知は堪らずどうと倒れた。善左衛門が意知に乗り掛かって最後の一太刀を振り上げたその刹那、松平対馬守忠郷が善左衛門の後ろから羽交い締めに組みついた。善左衛門から強く抵抗され、七十過ぎの老体の手にあまった。
 それを見た柳生主膳が隣の焼火之間から駆け寄り、捨て身になって善左衛門を組み敷いた。あとは大勢が寄ってたかって抑え込み善左衛門から小刀をぎ取った。
 意知は、太田備後と手伝い坊主たちによって太田の自部屋に運び込まれた。意知は、毛氈の上に安臥し御殿医を待ちながら、はっきりした意識で善左衛門のことを静かに思った。
 ――屋敷に訪ねて来たときから狂信の目をきおったから、丁重に言葉を選んで噛んで含めるように話してやったものを、それでも恨みを含んだか
 ――あれほど武威、武威と申しておったものを、いざ不意打ちとなるととどめも刺させない不束者ふつつかものじゃ。医師に早う出血を止めてもらえば、命ばかりは助かるやも知らん
 ――今年は辰年、父上の頃から辰年は常に悪しき年じゃった。我が家には忌み年か
 殿中は大騒ぎとなった。現場には、中之間から桔梗之間にかけて四十八畳に鮮血が飛び散り、壮絶な刃傷の現場が残されていた。よほどの量の血痕だった。



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