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希死念慮をラフに語れる場があったらいいなと思う


希死念慮との付き合いはまあまあ長い。

これからも、希死念慮と共存しながら生きていくのだと思う。

くわしい希死念慮歴は前の投稿に書いた。



最近、希死念慮をもっとラフに語れる場があったらいいなと思う。

 
希死念慮という感情は、一度心に刻まれてしまったら、もう元には戻せない不可逆性がある。例えがあれで恐縮だけど、非処女が、処女だった頃の自分には戻れないのと似ていると思う。

一度心に刻まれた希死念慮は、心身のコンディションが好調なときは一時的に潜むにしても、不調に陥ったときには再び現れてくる。

心の中で同居してる、という感覚に近い。

長年に渡って希死念慮を抱えてきた人間にとってそれはとても身近なもので、もはやアイデンティティの一つにもなっている。

私は、良く言えば「生きること」に対して執着がない、悪く言えば投げやりな人間で、わりといつ死んでもいいや〜〜のスタンスでいるのだけど、これもまた自分の個性の一つだと思っている。

 


しかしどうやら、世間の大多数の人間にとっては、希死念慮はそんなにラフに語れるものではないらしい。


 

色々縁あってメディア関係者から取材を受け、生い立ちをインタビューされていたときのこと。

話の流れで「わりといつ死んでもいいと思って生きているんですよ〜〜」と答えたらインタビュアーを驚かせてしまった。
 
慌てて「本気で死ぬ気はないんで!!ふわっと思っているだけなんで!!ほんとに大丈夫です!!ご心配は無用です!!!」とフォローしたものの…。

一般の人にとっては、希死念慮は身構えてしまう話題なんだなと改めて実感。

自分の感覚がバグっているのを自覚した。

 


そんな私にも一人だけ、希死念慮をラフに語れる友人がいる。

 

年に一回会うか会わないかレベルだけど、

「あと何年生きようか」「生前整理をどこまでしとこうか」「寿命を待ってみる?それとも…」

みたいな話をゆるゆると同じ温度感でしているとき、なんともいえない安心感がある。

矛盾してるようだけど、心理的安全性をもって希死念慮を表出できる場があることで、「もう少し生きてみようか」と前を向けているところはある。

 

世間にも、希死念慮をもっとラフに語れる場があってもいいなと思う。



エデンで希死念慮バーやるか…!?