合理的配慮って言葉をなくそう。障害者の社会進出にかかるコストは私たち全員で負担すべき必要経費です!!
こんなこと言うのは失礼も承知なんだけど、、、「合理的配慮」って言葉を最初に作った人、あまりにもワードセンスがなさすぎる。
特に「配慮」という文言をチョイスしたのは致命的なミスだ。
「配慮」には、「施し」「恩恵」「思いやり」「してあげる」といったニュアンスがある。
障害者の社会進出にかかるコストをみんなで負担するのは、障害者の正当な権利を保障するために義務なのに、「配慮」なんて訳をしてしまったものだから、「健常者が親切でしてあげるもの」といった誤った認識が定着してしまった。
健常者と障害者の間に、「配慮してあげる人」「配慮してもらう人」という力関係ができてしまった。
本来、障害者の社会進出にともなうコストの負担は、私たち全員で負担するべき必要経費だ。
社会を維持するためには、出生を続ける必要がある。
出生を続ければ、一定の確率で障害を持つ者が生まれてくる。
身も蓋もない言い方をすれば、障害というのは誰かが引き受けなければならない貧乏クジであり、障害者というのは生まれながらに罰を与えられている運命にある。
私たちが今、人の手を借りずに食事できて着替えできて排泄できて、自分の好きなタイミングでお風呂にゆっくり入れて、行きたいタイミングで行きたいところにふらっと行けて、公共交通機関の利用や、他人との意思疎通や、デジタルデバイスの操作をイージーにできるのは、誰かが障害という貧乏クジを引き受けてくれているおかげなのだ。
だからこそ、私たちは自分の代わりに「生活や就労に伴う著しい不便」を引き受けてくれている人々に対して、不平等を是正する義務がある。
それは決して親切心からの「施し」なんかじゃない。
「合理的配慮」という言葉は「是正措置」といったニュアンスの言葉に変えていくべきだと私は思う。