見出し画像

優生思想を消し去るのは不可能だからこそ


2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の障害者施設「やまゆり園」で起こった大量殺人事件は社会を震撼させた。
元職員の植松被告(当時26歳)が施設に侵入、入所していた19人もの障害者を刺殺し、さらに26人もの障害者に重軽傷を負わせた。被害者の人数は「戦後最悪」とされている。
植松被告は犯行動機について「社会のために生産性のない者は排除するべき」との優生思想的な発言を繰り返していたという。純粋たる悪意ではなく、世のために、人のために、善かれと考えて事件を起こしたのだ。

植松被告の主張が明るみになると、当然のことながら世間からは激しい非難が起こった。

「日本社会が持つ差別思想が表出したものだ」
「ヘイトを容認する風潮が背景にある」

やがて「障害者にも健常者と同じ人権がある」「分離社会をなくそう」と訴える言明が数多く発信されるようになった。彼が主張する「優生思想」は、人権社会として受け入れる余地はないと各所から毅然とした反対が表明され、連帯の輪は広がっていった。

事件が起こった7月26日には、毎年各地で犠牲者を追悼するアクションが行われている。

昨年にはX(旧Twitter)にて、「#私は優生思想を許しません」とのハッシュタグ運動が行われトレンド入りを果たしていた。


「優生思想を許しません」は寝言


私は発達障害2世である。発達障害の親のもとに生まれ、遺伝して私自身も発達障害を持っている。

本来であれば私も優生思想に抗うべき立場なのかもしれないが、私は優生思想を完全に否定することができない。
「#私は優生思想を許しません」のハッシュタグ運動も、「キレイごとばっかりタイムラインに流れてくるの鬱陶しいな」と苦々しく眺めていた。

障害者が無残に殺傷された事件は痛ましく、決して許されるべきことではない。風化させてはいけない事件であることは確かだが、かといって優生思想を完全否定するのは理想論が過ぎるように感じられたからだ。

私たちは誰しもが内なる優生思想を持っている。内なる優生思想を隠すことはできたとしても、各々の心から完全に消し去ることは不可能だ。

我々の暮らす社会には、オブラートに包まれた優生思想に溢れている。

「ダイバーシティ」を掲げる組織だって、自らの組織内に入れるマイノリティの質と量はマジョリティ側がコントロールしている。企業の障害者雇用枠だって、できるだけ軽度で介助の手間が少なくて済む人材、温厚な性格を持っていて周囲の健常者が気持ちよく配慮できる人材を採りたい。

発達障害の就労移行支援施設では、マジョリティ(発達障害ではない人)のコミュニケーション様式を模倣する訓練をさせられる。発達障害者は、マジョリティのコミュニケーション様式を習得した上で、社会に出て働くようになる。それは発達障害者にとってサイズの合わない靴を履いて歩き続けるようなものだ。

婚活マッチングアプリでは、あからさまに経済力やルックスで異性が選別されている。ズラリと並んだ人間カタログから、各々が定めたボーダーによって人間がふるいにかけられていく。

好き好んで障害児を授かりたいと思う親はいない。だからなるべく若いうちに産めるようにとライフプランを考えるし、出生前診断で障害児を産むリスクを調べることだってする。

障害を持つ人にも幸せに暮らしてほしいが、それは自分に害のないところでやっていてほしい。障害者施設の建設がされるとなると決まって住民の反対運動が起こる。
最近であれば、2023年11月に横浜市金沢区で開所予定だった知的障害者施設が、近隣住民の反対運動によって開所を断念せざるをえなくなったとの報道があった。「やまゆり園」もそうだったように、障害者の施設の多くは、誰の家の近所にも作られず、人里から離れた山あいにひっそりと立てられる。障害者は誰の目にもつかない場所で、世間から隠されたように生きている。

「障害は個性」なんて物言いもあるが、障害など本来無いにこしたことはない。障害は本人の生活や就労にハンデをもたらすものであり、決して尊いものなんかじゃない。私だって自分の発達障害を捨てられるなら捨ててしまいたい。

私自身「発達障害」という、世間から見れば「生産性がない」と切り捨てられやすい属性を持っていながらも、人間を選別して暮らしている。

汚い臭いホームレスには近づきたくない。
極端に受け身だったり、距離感が極端におかしかったり等、コミュニケーションに莫大なエネルギーを消耗する人とは付き合いたくない。
交際するなら最低限の身なりを整えている人がいい。

こうした本音は大なり小なり誰もが持っていると思う。

いくら人権社会が整備されたとしても、私たちの内心から優生思想を消し去ることは不可能だ。
だからこそ、優生思想に蓋をするのではなく、各々が内なる優生思想と向き合った上で人道面をどうやって守っていくかを考えることが重要だ。自らの優生思想を直視するのは苦しい作業ではあるが、それが第二の植松被告を生まない社会の土壌作りに繋がっていくと私は考える。