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「死にたい」も前向きな感情の一つだと思うの



私は「死にたい」も前向きな感情の一つだと考えています。

※この投稿でいう「死にたい」感情とは、精神疾患の症状として引き起こされているものではなく、信条や価値観として能動的に有しているものを指しています。

もしも今、毎日がすごく辛くて、何も楽しいと感じられなくて、どうしようもなく苦しくて消えたいという状態の人は、この投稿を読むよりも先に心療内科を受診することを大推奨します。病院の処方薬は、切迫した希死念慮を和らげるのに一定の効果があります。ゆっくり休んでご自愛下さいね。

 

 *  *  *

 

もしも、自殺に追い込まれるまでの苦悩や葛藤、自殺手段によって死に至るまでの恐怖や苦痛、これらが無いとしたら…
スッと眠るように死ねるとしたら…

「死にたい」ってそんなに悪い感情じゃないと思うんです。


死とは眠りの延長で、ストンと寝落ちたときの意識が「無」になった状態が永遠に続くようなものだと私は想像しています。

寝ることが何より大好きなロングスリーパーの私にとっては、「永遠に寝てられる」とは夢のような話です。

 


私たちは生まれてくる時代も、どんなカードを持って生まれてくるかも選べません。

産み落とされた時代に、ランダムに配られたカード(家柄、頭脳、身体能力、容姿、病気・障害の有無など)を使って生きていかねばなりません。

それ以前に、「生まれる/生まれない」すら選べません。
私たちは否応もなくこの世界に産み落とされました。

だからせめて、この世を去るタイミングくらい自分で選ぶことができても良いと思うのです。
自分で去り際を決められたら、お世話になった人に挨拶もできるし、身辺整理も納得行くまでやれますよね。


「この世を去るタイミングくらい自分で決めたい」ってある意味、命に対して能動的で前向きな姿勢だと思うのです。


 

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現代の日本には「自ら死を望むのは悪いこと」という社会通念が浸透しています。

しかし本当にそうでしょうか。

 
命に対する価値観は、時代によって変わります。

 
たとえば、戦時中は「生きて捕虜となるくらいなら自決せよ」という社会通念がありましたよね。
沖縄の地上戦では、米兵に見つかったときのために民間人に手榴弾が配布され、自爆による死は「玉砕」「散華」と美しい言葉に言い換えられていました。

戦時中の命に対する価値観はあまりにも非道で極端なもので、それを肯定するつもりは一切ありませんが、命に対する価値観(どれくらい命が重んじられるのか、そこに本人の意思は尊重されているのか)ってものは時代によって変わっていくものです。



現在では、海外で安楽死を認める動きが進んでいますよね。



「自ら死を望むこと」が絶対悪だとは、言い切れないと思っています。



 

私の20代、知っている人が何人も自死で旅立って行きました。

自殺した人を悪く言いたくありません。
「ただ生きていてくれたらよかったのに」なんて言葉は口が裂けても言えません。

多少なりとも交わりのあった人が死ぬのは悲しいことです。
自死をしたと聞くと、そこに至るまで苦悩があったであろうことや、自ら命をあやめる痛ましさに、胸がチクリと痛みます。

でも、死なないでほしかった、というのはこちら側のエゴです。
自死を考えるほどに追い込まれ、実際亡くなっていった人に対して、「(身近で自殺が起こると気分が悪いから)死なないでほしかった」なんてこちら側の都合を押し付けるのは不条理な話。

自死していった人に対して私が思うのは、「そうか、先に逝ったんやな。今までよく生きたね、頑張ったね。」という労りの気持ちです。

あとは、死の瞬間、苦痛や後悔を感じずに逝けたことを願うのみ。



昨今、神域とされてきた生殖分野に医療技術が侵入しています。
命のスタート時点を人間の意で操作するようになってきたのだから、命のゴール地点だって我々の意思でしたいようにできる世界線があってもいいなと思うのです。

 

おしまい。