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医療従事者が一律に「希死念慮イコール悪」と捉えているのに違和感




こんばんは。
多動と申します。

現在、メンタル休職中の三十路女です。



〜某月某日、某メンタルクリニックの面談室にて〜




看護師「余暇時間は何してるの?🙂」

私「シュウカツを再開しています😄就職活動じゃなくて人生を終える方の😄」

看護師「まーーーだそんなこと考えていたの😅そんな悲しいことばかり考えていないで、もっと楽しいことしたら?」

私「終活は楽しいですよ🥰死は希望ですから🥰」

看護師「はあ😅」(手元のカルテに「希死念慮あり」と走り書きする)





〜〜〜



このとき、私は心の中でプチ悪態をついていました(笑)
「まーーーだ」って言い方せんでもええやん、それにそんなことって何やねん、と。

そして医療従事者が一律に「希死念慮イコール悪」という認識を持っていることに改めて疑問を感じました。


私は看護学科を卒業し、精神科ナースとして一年間、勤務していた経験があります。
看護学校の授業でも、実際の医療現場でも、一律に「希死念慮イコール悪」と扱われていることに違和感を持ち続けていました。



希死念慮って必ずしも悪いものですか?

死にたい気持ちを抱えながら生きている人がいたらダメですか?



そして自分自身がメンタルを病み、精神科看護を受ける立場になった現在、違和感は確信に変わりました。





希死念慮は大きく二つに分けられると私は考えます。


一つは身体的な原因によるもの。
精神安定に作用する脳の神経伝達物質「セロトニン」の不足や、ホルモンバランスの変動によって希死念慮が発生することがあります。
病名としては「うつ病」「月経前気分障害」などが挙げられます。
身体的な原因による希死念慮については、適切な治療を行うことで改善が見込まれます。


もう一つは、その人が持つ信念的なもの。
世の中の希死念慮持ちさんの中には「信念的な希死念慮」を持つ人も少なくないと私は確信しています。
「信念的な希死念慮」。私が作った概念です。
「生きることよりも死ぬことを善とする」その人の価値観のようなものを指しています。
身体的原因の治療を尽くしてもなお希死念慮が消えない場合、その希死念慮は本人の信念から発生しているものを考えられます。


前者の希死念慮については、医療従事者は治療を尽くすべきです。しかし後者の希死念慮については、医療従事者はその人の信念として尊重する関わりをするべきだと私は思います。




私は信念的な希死念慮を長年抱えてきました。


私にとって希死念慮は
人生の伴走者であり
アイデンティティでもあり
志向でもあります。


希死念慮はどんなときも私のそばにいました。
幸せなときも、ドン底のときも、何気ない日常を送っているときも。
好きな人にぎゅっとされて頭を撫でられている幸せな時間は「今この瞬間に死にたい」と考えていましたし
メンタル病んで働けなくなって苦しい時期もやはり「今この瞬間に死にたい」と考えていました。
家事をしているとき、散歩をしているとき、自転車に乗っているときなど、日常のふとした瞬間にも「死にたい」が浮かんできます。


希死念慮は私の通常運転と言えます。


もしも私が「人生ってサイコーーー‼️生きるってスバラシイね😆✨希死念慮❓そんなもの無くなったよ‼️」とか言いだしたら、そのときは違法薬物使用やドッキリを疑っていただきたい(笑)



私は「はぁ、死にてえなぁ」が口癖で、ダークな場所に精神世界を構えていますが、そんな自分が嫌いではありません。むしろ生きる希望に満ち溢れている自分なんて自分らしくない、気持ち悪い(笑)


私にとっては「死にたい」も前向きな感情の一つです。
「旅に出たいなあ」と同じようなテンションで「死にたいなあ」と死後の世界を夢見ています。
死んでしまえば面倒なこと全てから逃げられるから。
永眠とは永遠にスヤァと寝てられることだから。
「いってきまーす❣️」と旅に出るノリであの世に行くのが私の理想の死に方です。


もしも、世の中の全員が生きることに前向きな姿勢を持っている世界があったとしたら、それはそれで不気味じゃないですか?
そんな世界、思想統治されてるみたいで気持ち悪い。
これだけ人がいるんだから死にたい気持ちを抱えながら生きている人もいたっていいじゃないですか。



希死念慮と一律に悪いものと捉えるのは違うと私は思います。