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#国は安楽死を認めてください


#国は安楽死を認めてください

というツイッターデモが毎週土曜日の夜に行われていることを知った。

賛同者は多いようで毎週のようにトレンド入りを果たしている。

とても良い流れだと思う。

海外では安楽死を認める動きが進んでいるというのに、日本では一向に議論がなされていない。
どうかこのツイデモが国会に一石を投じる力となってほしい。




私は安楽死に賛成派である。
理由は大きく四つある。





一つ目は、看護学生時代の実習で、拷問のような延命治療を受けている人がいるのを知ってしまったこと。

かなりの高齢だというのに、自力で呼吸ができないから気管に穴を開けてそこに呼吸器をつけて、自力で食べられないから胃に穴を開けてそこからチューブで栄養を入れて、もちろん寝たきりで、話せなくて、意識もおぼろげで、表情は苦しそうで…
まるで拷問のような状態で生かされている人がいるのを見てしまった。
あとから聞いた話では、高齢者が生きてさえいれば年金が出るから、それを目当てに何としてでも生かしておいてほしいと望む家族は少なくないらしい。
お金目当てで拷問のような状態で生かされる…これが尊厳のある命の在り方といえるだろうか。






二つ目は、社会の深い部分で苦しむ人の存在を知ってしまったこと。

性風俗店や閉鎖病棟での勤務、現在の勤め先を通じて、私は社会の深い場所、言うならば陽の当たらない場所に、壮絶な苦しみを多重に背負い、死にたい気持ちを強く抱えながら、必死で人生をサバイブしている人たちがいることを知った。
彼ら彼女らに接したとき、私は「今までよく生き延びてこられたな」と思わずにはいられなかった。

人間の一生における幸せの量と不幸の量は平等じゃない。
私たちの社会は完璧ではないから、そのひずみによって壮絶な苦しみを多重に抱える人はどうしても生じてしまう。
そうした人たちが早く楽になりたいと心の底から願っているならば、解放される選択肢があるべきではないだろうか。
彼らの苦しみを「生きていれば良いこともあるよ」「生きているだけでえらい」といった綺麗事で軽んじることを私はできない。

なお、安楽死の議論より先に、死を願わなくていい社会を実現したらいいじゃないかという意見もあるだろう。
しかし社会を変えていくことは簡単なことじゃない。歴史を見ても、社会が変わるには一定の犠牲と遠大なプロセスを要していることが分かる。
そうしている間にも、地獄を生きる人の苦しみは続いている。







三つ目は、私の知っている人が何人も自死していったこと。

私の20代、見知っている人が一人、また一人と自死で旅立っていった。
共通の友人を通じて知り合った人。
市民活動仲間だった人。
そして職場関係者が複数。
自殺方法は、首吊りや、ビルからの飛び降り、薬の過剰摂取。

一人ひとりとはそれほど親しいわけではなく、顔を合わせればちょっとした世間話をする程度の関係であったけれど、面識のあった人が自ら命を絶っていく痛ましさには胸が締め付けられる。

もしも安楽死が認められていたら、彼ら彼女らはもっと安らかな最期であっただろうに…と思わずにはいられない。




 

四つ目は、私自身がわりといつ死んでもいいや〜〜のスタンスで生きていること。
良く言えば生きることに執着がゼロともいえる。
変わっているかもしれないが、これもまた私の個性の一つである。
私は同年代よりも「死」を近くに感じながら生きている。
もしも安楽死が日本で認められたなら、私はきっと心穏やかに死までのカウントダウンを過ごせるだろう。




以上4つの理由から、私は日本でも安楽死を認めていただきたいと切に願っている。




先日、ツイッターデモの中にこんな言葉を見つけた。

今この世に誕生した赤ちゃんに「おめでとう」と笑顔で声をかけるように
今この世を去ろうとしている方々にも「お疲れさまでした」と笑顔で声をかけられるような、そんな世界を望みます


そんな世界が実現したら、とても素敵だろうなと思った。


どうか日本の国会においても早急な議論と法整備をしていただきたい。





〈補足〉
先日、介護士をしている知り合いがこんなメッセージを発していました。

たとえ難病でも、癌でも、自分で排泄できなくても、食事できなくて胃瘻を作っている方でも、生きたいと願い、必死に生きようとしている人がいるのを知っています。
同じ状況でも、全員が全員、安楽死を願っているとは思わないでほしい。
私自身希死念慮持ちだし死ぬ権利の主張もわかるし、現実「もう、死にたいわ」と仰ってる利用者さんがいるのも真実。
でも少数派かもしれないけど、難病だったり身体が動かない状況でも生きたいと願っている人がいる。
私はその人達が生きる為の手伝いをしてると思って仕事しているし、死ぬ権利の主張の声が大きくなることで、生きたいと願っている人たちの権利が脅かされないことを願ってます。

死ぬ権利が議論される中で、それでも生きようとしている人の存在が置き去りにされることのないようには留意していかねばと思います。



おしまい。