9割の惰性と1割の希望で生きている
希死念慮と付き合いながら生きている。
私の希死念慮には波がある。
体調の良好なときや、楽しみな予定がいくつも待っているときは、希死念慮は水面下に潜む。
一方で、体調不良と戦っているときには、希死念慮が現れやすい。
希死念慮はふわ〜と浮かぶように現れることもあれば、突き上げるように激しく現れることもある。
後者の現れ方はまるで発作のようで、本当に苦しい。おさまるまで数時間はかかる。
私にとっては、ただ生きる、それだけのことがとても面倒臭い。
発達障害という、生まれつきの脳機能の不便を抱えているため、普通に社会生活をするだけで人一倍疲れる。
感覚過敏を持っているため、普通の人ならどうってことない刺激にも疲れる。
共感覚を持っているため、脳に入る情報が過多になりがちで疲れる。
花粉、雨天、季節の変わり目、生理前といった時期的な要因でも体調を崩す。
これらだけで十分すぎるくらい面倒臭い。
少しでも改善したくて婦人科や心療内科に通院し、自分で色々な健康法も実践しているが、それらの努力すらも面倒臭い。
私にとってこの世界は、不調のトリガーが多過ぎる。
一切のトリガーのない世界に行きたいという、ただそれだけの理由で早く死にたいと思う。
それでも私は、9割の惰性と1割の希望で生きている。
9割を占めてる惰性とは、「自殺するのも面倒臭いから仕方なく生きている」という状態を指している。
自殺には膨大な手間がかかる。
絶対に失敗しない方法を探さないと。
自殺死体の第一発見者には精神的苦痛を与えるだろうから、その人に渡す慰謝料も用意しておかないと。
自宅で自殺するとしたらアパートが事故物件になってしまうから、損害賠償費用も用意しておかないと。
荷物も全部処分しないと。
SNSのアカウントも消去しないと。
…などなど考えると非常に面倒臭い。
それに自殺には失敗のリスクがある。
自殺の後遺症で、首から下が麻痺で動かなくなったり、植物状態になったりして、もう自殺を試みることもできず、不自由な体で生き続けるしかない…という人がいる現実を私は知っている。
自殺の面倒さとリスクを考えると、わざわざ自分で自分を殺めるなんてするよりも寿命を待つか…という気分になる。
明けない夜はない、止まない雨はない、終わらない命だってないのだ。
残りの1割の希望とは、「先のことは分からない、良くなるかも」というかすかな希望を持っている状態を指している。
先のことは分からない、思わぬことも起こりうるのだ。
私の今までの人生を振り返れば、
昔は大阪なんて都会すぎて住めないと思っていたのに、気づいたら大阪の街が大好きになっていた。
昔は子だくさんの母になるつもりでいたのに、気づいたら反出生主義者になっていた。
看護師になるつもりで免許まで取ったのに、気づいたら全然違う職業に就いていた。
たった29年の人生でも、これだけの「まさか」があった。
思わぬ良いこともあった。
バーとは無縁の生活だったのに、ふとしたきっかけで大好きなバーが出来て常連になった。
好きな言葉や音楽が増えていった。
いくつかの心震える芸術作品とも出会えた。
もしかしたら、これから先にも「まさか」があるかもしれない、何か素敵なことがあるかもしれない。
そんな淡い期待を持って生きている。