「青年少女よ、春を貪れ」は、意思疎通の隔たりが生んだ悲劇ではないか?どうしたらよいのだろう。

はじめに、記載の内容は「漫画」の具体的な記述にはほとんどなっておりません。ですのでネタバレもありません。

自分はそれなりの年を重ね高校時代の同窓生と会って話してみたくなる世代にりました。まあ年取って話してみたくなるかそうでないかは、個人差があると思いますが…。
また、そう言えてしまうのもそこそこ「仕事・妻・子供」に恵まれているという結果という前提があるから、そうなのかもしれません。

同窓生に色々話してみたいと言っていますが自分の高校時代は、今でいう陰キャ&モブキャラであった。
ということは、高校時代にクラスメイトなど友達として親しく話していた人は非常に少ない。

でも、そのなかでも救いがあるのは、当時は水泳部に所属し、その中ではそこそこ真面目に部活には取り組んでいたので、その当時の仲間との繋がりはある、というか自分が声掛け役になっていたりはしている。

話に取り止めがないが…何がいいたいのか?

自分は人の人生に非常に興味がある、と言いたいのである。
だから自分が高校時代の同級生に高校時代を含めて今までの人生についてあったことや、そこで思ったことなどを忌憚なく聞いてみたいと思っている。

ではなぜ聞きたいのか?

これが答えではないかもしれないけれど、人生を実際どう皆は生きているのか?それが知りたいと思っている。だって人はみんなこの世にいつのまにか生を受けて生きている。生きるという意味では「この世の中に生を受けたい」なんて言ったかどうかを覚えていないまま自分という人生を与えられてしまっている。

でも高校時代の同級生じゃなくても人生を聞くのはだれだっていいじゃないか、会社の人とでもはなしたらいいんじゃないか?という意見もあると思う。

そのできない理由を考えると自分は人を無条件に信じることが苦手でだからかもしれない。

たとえば、会社の人間関係は信用をしているものの信頼しているか?を問われれば多分「信頼」という面ではなやんでしまう。かたや、高校時代の人は優秀な方々がいた学校であるというのもあるけれど、何となく信頼してしまっている自分がいる。同じ地域に住んでいた同じ時代に高校という場所に集っていた人は、なぜだろうか…。実は信頼できるのではないかと勝手に思ってしまっているのである。改めて考えてみたら趣味嗜好の合わない団体は自分にとって確実に苦手なはずなのにそう思う根拠は何だろうかと、今改めて考えてしまった。

現在、自分の卒業した高校の同窓生の間では同窓会準備委員会というのが出来上がっている。

しかしながらそれに参加してくれる人たちが全員、自分と同じようにみんなと色々話したいと…そう思っているわけではないことは明白である。高校生時代に実際の体験した様々な当時の友人との共有をしたいことがあるだろう。自分は陰キャ&モブであったがためにそれができにくいだけの話である。さらに自分だって、別の局面では水泳部の同窓の集まりではその仲間と話したいと、そういうことをしている。

そう考えると、やっぱり自分が期待していることと、相手の考えていることにはきっと多分大きく隔たりがあるのだと思う。そこはちゃんと知っておかないといけないのではないかと思う。

この「意思疎通の隔たり」、そこが主題になっていると自分は考えている漫画を今回は引き合いに出します。「青年少女よ、春を貪れ」という漫画になります。

主人公が10年前の学生時代に3週間だけ付き合った女性(なぜ3週間かといえば女性は3週間後に亡くなってしまったため)に何が起こって、そうなったのかについて原因と考えられる自分の同級生に会いに行き、何が起こっていたのかを確かめていく話になっています。そこでわかるのは同級生がその当時に何があり何をどう考えていたかは、改めて聞いてみない限り絶対わからないという事、なのではないかと思いました。それと同時に今自分にあるものを大切にしなければならないと思わせてくれる漫画です。

そう「今が一番大切なのです」。

とにかく相手がこんなこと考えていたのかという予想を裏切る展開が何度もあり、ストーリーが丁寧で上手だなと思いました。先日お笑いタレントの「ゆいP」がTVでおススメ漫画として紹介していましたが本当にその通りだなと思いました。実写のドラマとしても見てみたい。

自分も含め人は表面を見たり態度を見て「こういう人だ」と自分で勝手にわかった気がすると思います。
でもそれはわかった気がしただけであり、わかっているのではないと思ってしまいます。

わかった気の「壁」を自分が乗り越えて、その先を相手と共有できるなら、それは幸せなことじゃないかと考えているのです。

貴方はどう思いますか?

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