脳が死んでも人は動く

何をもって人の死とするかで、人それぞれ様々な捉え方や意見があるかと思います。

一般的には心臓が止まり、蘇生術を施しても効果がなかった時、つまり心臓死を死とするという概念が多数派なのではないでしょうか。

何も措置がない状態ならば、心臓が止まれば血流も止まり、呼吸も止まって死に至りますので最もな考え方だと思います。

しかし現在は脳死、脳幹死をもってして人の死とするという考え方も生まれました。

人工呼吸器を挿管して心臓は動き続けていても、低酸素や脳卒中、外傷などでの脳へのダメージによって脳のみが死んでしまっていることがあるのです。

心臓は動いているのに死んでいる、大事な人が目の前でそんな状態になったら、とても受け入れがたいことですよね。


私の母はまさしくその状態になりました。

自宅で心肺停止状態、救急隊員の蘇生術とアドレナリンによって心拍が再開し、搬送当初はわずかに自然呼吸もありましたが、すでに対光反射(瞳に光を当てると瞳孔が縮瞳する)がありませんでした。

自然呼吸も数日の内に止まり、後日医師に臨床的脳死であると宣告されました。


宣告された日、血圧測定のベルトが自動で動き母の腕を圧迫したのですが、その時搬送からずっと微動だにしなかった母が、初めて動きました。

嫌がるような、少し肩から腕を上げるような形で動いて、私は当初医師の診断が間違っているのではないかと希望を持ちました。

翌日、また翌日と病室へ行くと、母の"動き"が少しずつ大きくなっていくのです。

血圧の測定や人工呼吸器のチューブの掃除のたび母は体をくねらせるかのように動きます。

それはなんだか機械的な、感情が伴っていない動きに見えました。

心臓が止まる前日、「また明日来るからね」と声をかけ、母の手を握るとまるでこちらを見るかのように体が動きました。

私はまたもや最後に期待してしまいましたが、逆側に回って左手を同じように握ると、全く同じように機械的に母が動きました。

このとき漸く母はもう死んでいるのだと実感しました。


脳が死んでしまっても、脊髄は生きていて、脊髄が上位の脳から解放されてこのように動くことがあるのだとか。

ラザロ徴候というようです。

脳外科医の中にはこの脊髄反射が出始めた時点で、脳が完全に死んでしまったのだと考える方もいるようです。


これが生きていることの証であると考え、脳死自体を否定される方もおられるようですが、

あの機械的な動きを目にした私にとっての死とは、脳の死であると考え方を改めるきっかけになりました。

それでも今も、母は一体いつまで生きていたのだろうと考えてしまうのです。

廊下で大きな談笑の声がした際母の心拍数が上がったのは聴覚が残っていたのだろうかとか、

私が寄り添っていると心拍数や血圧が落ち着いていたのは偶然だったのだろうかとか、

もしも心臓が止まるその時まで母の心が残っていたのだとしたら、とても怖くてたまらなかっただろう、

何もしてあげられず、ごめんなさい。

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