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創造の泉が渇れた後に

クリエイティブとは。
創造性、アイデア、創作意欲。

アウトプットのし過ぎで、
元々それほどなかった引き出しから
まったくアイデアが出なくなった後に
絶望して眠り続ける日々。
眠るのも飽いた頃、インプットに明け暮れる日々を経て
少しずつアイデアがぽっと灯るようになってきた。

けれども以前のような「よっしゃーー!!」みたいな感覚にはならない。
一度枯渇した泉は、もうこんこんと涌き出ることはないのだろうか?

何か嫌なことがあったとき、楽しいことがあったとき、悲しかったとき
毎日描いてきたのに
今はダラダラと動画を垂れ流すかSNSをさ迷う。とりあえず習慣化したゲーム。
スマホが一番の原因な気がしてきた。笑
ひとまずスマホ問題は置いておく。

自分でこの渇れた状況について考えてみる。

常識や先入観にまみれているのかも知れない。

アイデアはとにかく数。数勝負。
どんなにつまらないと思うようなアイデアも
どこかで思いもよらないところでカッチリはまったりする。
と言うようなことを聞いた。
(笑)

自分で「これはない」と捨てる判断が早いのかも知れない。

つまりは
自分の想像の範囲内で出たアイデアなど
たかが知れているのだよ。

自分が今まで生きてきた経験や知識量で
「これだ!」と言うものなど
本当にあるのか?
そこに新しさは、驚きはあるのか?

それはとにかく量を集めて煮詰めて煮詰めて
もう出ない、無理だ、の先に
磨いた上で見つかるものなのではないのか。

それをふまえた上で、と言うことだ。

自分の想像を越えるものを作るためには
自分の想像した範囲内でおさめていては
いかんのだ。

渇れた泉は、待つか、掘るしかない。
また泉が涌き出るまで。

とにかくインプット。
そして新しいことをする。

いつも同じことをしていては、いつも同じなんだよ。
食べ物も冒険できないわたしです。

今度普段は絶対に選ばない食べないものを敢えて買ってみようか…
うぅっそれコワい…😨

だがやってみせる!笑
と言う葛藤。

そして
無駄だと思っていたものも、実は無駄ではなかった。
すべては必要なことで、必要なものだったのだよ。
一見何でもないようなことが、あとで伏線回収のようになる時が必ずくる。
覚えていないことも、そういう瞬間があるんだろうなあ。

焦らずいこう。
自分の歩みでいいんだ。

あの頃にはむしろ戻らない!
今のわたしなら新しい形でなにかができるはず!
わからないけど!笑
とりあえず運動不足と自然が足りないから
森に行きたいです🌳

あとおつまみが切れてるのでなにか買ってこよう。(これだよ)
普段自分がなかなか買わないやつを!!