命の選択を

まず初めに断っておくと、ぼくは感染症の専門家ではないし、そもそも論点はそこではないことはご了承いただきたい。

さて、新型コロナウイルス(COVID-19)はとてもユニークなウイルスのようだ。

①潜伏期間が非常に長い
②ウイルス自体の毒性は非常に強いとは言えないが、感染力は強い(弱いけどうつりやすい)
③ほとんどの人は風邪と見分けがつかないほど軽症だが、少ないながら重症化する例があり、人工呼吸器など集中的な治療を要する
④致死率は高くないが(2%程度と推定、基礎疾患なしなら1%以下)、高齢者や合併症のある患者さんにとっては致死的となりうる

①と②のため、非常にパンデミックを起こしやすいが、正直、これだけなら放っておいてもよい。
問題は③と④だ。

④は武漢の統計であり、日本とは生活水準も医療水準も違うし、あの混乱状態でのデータなので、おそらく致死率はもっと低い。
日本の発症者における死亡率の割合の高さは当然ながら検査を絞っているからであり、不顕性感染や軽症例を含めれば感染者はもっとずっと多いはずだから、死亡率は相当低いはずだ。
ただ、致死率2%と言われる感染症を放っておくことはできないから、当然封じ込めを最優先せざるを得ない。

それ以上に厄介なのが③だ。
医療機関にとって最悪のシナリオは院内感染だし、しかも①②のような特徴があるため、微熱や軽い咳など、通常の風邪の症状であったとしても、COVID-19を想定して完全防備で診療に当たらなければならない。
そして、99%はおそらくふつうの風邪だが、大量の「ただの風邪」のなかに、恐ろしい敵が潜んでいるので、常にCOVID-19を疑い、細心の注意をはらってただの風邪を診なければならないのだ。
これが医療者にとってどれだけ心理的負担になるかは想像に難くない。

そして、COVID-19感染であったとすると、その中の数%は重症の肺炎を発症する。現場の先生の見解によると、長い潜伏期間を経ていきなり発症し、急激に悪化する例があるため、人工呼吸器や、もっとひどい場合は体外式膜型人工肺(ECMO)を使用せざるを得ないケースが少なからずあるようだ。
現時点では有効な治療薬がないため、人工呼吸器やECMOを使いながら時間をかせぎ、自力での回復を待つしかなく、1人の重症患者につき1~2週間、これらを使用するわけだが、当然、人工呼吸器やECMOなどという高度で集中的な医療資源は有限である。
今月前半の話だが、イタリアで「60歳以上の患者さんには気管内挿管しない」という医師の話が書かれていた。
挿管しても人工呼吸器が足りなくて救命できないからだ。これが、オーバーシュートを何とかして防がなければならない最大の理由だ。

ちなみに、COVID-19の診断は、臨床経過と肺炎像でかなり推定できるようで、これらの検査や経過から強く感染が疑われる方を確定診断する目的でPCRが使われているようだ(もちろん、濃厚接触者への追跡としても行われているが)。特に、日本のCTの普及率と性能の高さは世界でも群を抜いており、それが診断や治療に大きく寄与している。つまり、重要なのは臨床経過とCT等の検査であって、PCR検査はただの「確認」であり、治療薬がない現状では確認だけしてもあまり意味がない。だから日本はPCR検査を絞っているのであり、現状をみると、日本の方針は今のところ有効である。


さて、このウイルスと人類との戦いの行く末にももちろん関心があるのだが、ちょっと異なる、別の視点からも考えてみる。

今年に入り、2019年の自殺者数が、1978年の統計開始以来初めて20000人を割ったというニュースがあった。
もちろん、20000人という数字は決して少なくなく、インフルエンザの死者が3000人強、交通事故による死者が3215人であったことを考えれば充分多いのだが、それでも、ピークであった2003年の34427人に比べればかなり減っている。
国の対策が徐々に成果をあげてきているという部分もあるだろうが、統計的にみると、「景気動向指数(CI一致指数)の増減と、経済・生活問題による男性の自殺者数の増減には、負の相関の関係がある」ということが分かっている(https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/jisatsu/16/dl/2-02.pdf)。
つまり、景気が悪くなれば(特に男性の)自殺者数が増えるという、単純で残酷な話だ。
そして、男性自殺者の年齢分布は三峰性で、20代と50歳前後、そして80代が若干ながら多い。しかし、20代の自殺者はあまり景気の影響を受けずに一定であり、高齢者は経済的問題もあるが健康上の問題が原因である割合が多いため、経済的問題の影響を最も受けているのは50歳前後であると言える。

つまり、乱暴に言うと、景気がよい時と悪い時では自殺者の数は15000人ほど違い、自殺が増えるのは50歳前後の男性ということだ。

今回のCOVID-19に対して、ワクチン開発は1年以上かかり、現在ある抗ウイルス薬での劇的な効果は報告されていないため新薬の開発にも長期間必要であろうから、現実的な方向としては、
①集団免疫の獲得
②行動変容(活動の制限など)
しかない。

①とは、人口の60~70%の人間が感染し、病原体への免疫を持つことで、アウトブレイクを抑制しよう、というものだ。
しかし、短期間に60~70%の人間が感染している時点ですでにアウトブレイクしているという矛盾があるし、その時点で医療崩壊を引き起こしイタリアやスペインの二の舞になってしまうため、現実的ではない。
長期間をかけて①をやろうと思えば、結局②が必要となってくる。

②は、現在日本を含めて世界中がとっている施策であり、具体的には、人々の活動を制限して感染の拡大を食い止めようというものだ。
これがうまくいけば、アウトブレイクを抑制し、一番深刻な問題となる医療の崩壊を防ぐことができる。
しかし、ウイルスの特性上、感染を完全には防げないため、現実的にはおそらく集団免疫を獲得するまで続く長期戦となるだろう。
そのときに、おそらく最も大きな問題となってくるのは、社会的・経済的な問題だ。
現時点ですでに様々な業種で多大な影響が出ており、経営難や倒産、リストラ、内定取り消しなどの話が出ている。
しかも現状の行動変容はまだしばらく続き、世界規模での不況にさらされるだろう。

果たして、どちらが影響が大きいのだろうか。

倫理的な観点からすれば議論の余地もないのだろう。
英国の首相が非難されていたように、強大な権力を持った独裁者を除いて、短期的に①を選べる人間はいない。

しかし、現実的には、現行の行動変容(②)を続けていたら、経済的に困窮する人はさらに増えていき、社会の不満も増大する。
上に書いた通り、自殺者も増加するだろう。しかも、その増加する自殺者は、働き盛りと呼ばれる50歳前後の男性だ。

COVID-19の致死率は、マクロ的にみると、おそらく年齢と相関すると考えられる。
つまり、高齢になるほど致死率が上がる。
人間はいつか必ず死ぬし、高齢になるほど死ぬ確率は上がるわけだから、ある意味、こちらのほうが自然の経過に近いわけだ(インフルエンザのほうが小児に流行りやすく重症化の可能性もあるため、その意味ではCOVID-19よりも性質が悪いともいえる)。

非常に乱暴に言うと、人類は、COVID-19に、高齢者や持病のある人の命を人質にとられた結果、仕方なく、多額の身代金を長期にわたり支払うことにした、という状況だと言える。
多額の身代金を長期に支払うことで、間接的に、働き盛りの男性の命も支払わなければならない。
結果的に、どちらの損失が大きいのか、それは誰にもわからない。

嫌気がさした若年層が徐々に行動変容に従わなくなると、オーバーシュートを引き起こして医療崩壊につながるリスクがあるので、実は若年層にも大きなデメリットがあるのだが、正直、気持ちはわからなくはない。
致死率1%以下ということは、自分はまず大丈夫だろうと思ってもまあ無理はない。文句を言ってくる年寄りに対して、「お前らのためにやっているのに、なんでそんなに偉そうに言われなきゃならないんだ」と思う気持ちもわかる。
これは日本に限ったことではなく、海外の若者の一部ではCOVID-19は「boomer remover」などとも呼ばれているそうだ。
boomerは1940年代頃のベビーブーマーを指す言葉のようで、日本語で言えば「老害」という意味合いだろうか。
どこの国でも世代間格差への不満があるものなのだろう。


トカゲは尻尾をつかまれたときに、生物としての死をさけるべく、尻尾を自ら切るという損切りをする。
実は、人間も、多量の出血があって生命維持が困難と脳が判断した場合、手足の血管を収縮させ、手足を捨てて重要臓器を守ろうという合理的判断を下す。
これらは「本能」とか言われる能力で、判断しているのは脳だが、それが個体でなく集団になった場合、「脳」に当たるのは誰なのだろうか。

ガゼルの群れがライオンに襲われたとき、逃げ遅れた高齢のガゼルを助けるために自らの命を差し出すガゼルはいない。遺伝子を、種を、存続させるためには、それが合理的な判断だからだ。それは群れのリーダーが判断しているというよりは、個体それぞれの判断であり、「本能」であると言える。

しかし、人間にはそれができない。COVID-19に人質にとられている高齢者を「仕方ない」と切り捨てる判断は、感情的、倫理的にあり得ない。
将来、完璧なAIがすべての施策を決めてくれる状況になったとしたら、AIには感情に左右されて合理的な判断ができなくなる、ということもないだろうから、長期的に見た人類の生存率や、経済的損失などを総合的に判断して、高齢者を助けないという結論を下すこともあるのだろうか。
(それが結果的には動物の群れの行動と同じになるとしたら、なんという皮肉だろう、はたして人類は進化したと言えるんだろうか、などといろいろ考えさせられる)。

それが人間の強さなのか、弱さなのか、ぼくにはわからない。ただ、囚人のジレンマ(社会的ジレンマ)に気づいたとしても、結局のところ、その選択肢しか選べないことは理解しているから、どういう結果になったとしても、まあ仕方がないと思う部分もある。
ナッシュ均衡はパレート最適と必ずしも一致しない。それが人間だ。


エヴァンゲリオン第拾八話「命の選択を」で、シンジは、使徒に乗っ取られたエヴァ参号機の破壊を命じられたが、そこに同級生が搭乗していることを知り、命令を拒否し、「(自分が死んだとしても)人を殺すよりはいい」と叫ぶ。実際には、シンジが使徒を倒さなければ自分どころか人類が滅亡するのであり、シンジからエヴァのコントロールを剥奪してダミーシステムにより使徒を倒したゲンドウの判断は指揮官としては正しく、シンジの判断は幼稚でひとりよがりだ。しかし、実際には、中学生パイロットを見殺しにしたゲンドウも批判は免れないだろう。

いま、各国の政治家に求められているのは、このシンジやゲンドウがしたのと同じ「命の選択」であるように思う。
そして、人間である以上、誰も、トウジを殺す選択肢を選ぶことはできないのだ。

せめて、人間らしく。人間なりの最善を尽くす。それしかないのだろう。

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