マトリックスと方法序説

ちょうど20年前の1999年に、一世を風靡した「マトリックス」という映画があった。
革新的な映像技術と、まるで日本のアニメのような設定が話題になった。

(物語の最初の設定の部分の話なので、これを書いても映画の魅力を損なうことはないと思ってちょっとだけ内容の部分を記載しようと思うが、これから映画をみようと思っていて、しかもほんの少しのネタバレも忌み嫌っているような人は、この先は読まずに戻ってもらったほうがいいかもしれない)

--------------------------------------------------------------------------------------

その世界を大雑把に言うと、「自分が生きていると思っていた世界はすべて、コンピューターが見せていた虚構であり、現実には、家族も友人も会社も仕事もいっさい存在していなかった」という設定の世界だ。

そこから目覚めた主人公が、虚構現実をみせて人間を支配していたコンピューターと戦っていくのが映画のメインなわけだが、ぼくが非常に印象に残ったのは、その「設定」の部分だった。

「これはもちろん作られた物語で、現実ではないけれども、果たして、いま自分が生きていると思っている現実が、虚構でないという保証はあるのだろうか?」


これを考えていたときに、高校のとき習った哲学者の言葉を思い出した。
デカルトの「我思う、故に我あり」だ。

自分を含めた世界のすべてを、「本当に存在するのか」と疑ったとき、実は
ほとんどすべてのものは存在を証明することができない。
なぜなら、認識というのはすべて、自身の五感を介在して行われているからだ。

自分が見たもの、聞いたこと、触れたもの、そのすべては、視覚や聴覚、触覚などの感覚器、感覚神経を介在して脳の一部に伝達されることで認識している。
たとえば、「きれいな花が咲いている」という認識は、その花に光があたり、その光が目に入って網膜に投射され、その刺激が電気信号という形で
視神経を通じて脳の視覚野に伝達され、ぼくらはそれを「きれいな花が咲いているな」と認識するわけだ。

なので、本当はそこに花はないのに、あると認識させる方法は、
実現できるかどうかはさておき、存在する。

ひとつは、例えばVRゴーグルなどで、現実の花と全く同じ光を網膜に投射する方法。
もうひとつは、脳の視覚野に、花を見たときと同じ電気信号を送る方法だ。
(マトリックスは後者に当たると考えられる)

つまり、現実に花がないのに、花があると認識させることは、方法論的には可能なのだ。

そうすると、そこに花が絶対に存在しているという証明はできないことになる。

このように、感覚を通じて認識している以上、家族であろうが恋人であろうが、対象がそこに実際に存在するという証明はできないわけだ。
マトリックスはフィクションだが、それが絶対にありえないという保証はないのだ。


デカルトは、方法的懐疑により、自分を含めた世界のすべてが虚構である可能性は否定できないと考えたが、もしすべてが虚構であったとしても、そのように考えている自分だけはその存在を否定することができないことを発見した。

それが、「我思う、故に我あり」だ。

自分の周囲のすべてが虚構だったとしても、いまそのようなことを考えている自分だけは存在を否定できない。
「自分は本当は存在しないのではないか」と考えていること自体が、自身が存在する証明になっている、という命題だ。

マトリックスでも、ネオが覚醒したとき、自分が生きていると思っていた世界はすべて虚構であることに気づくのだが、そんな虚構の世界のなかでも、ネオは実在していた。


マトリックスをみて、デカルトの言葉を思い出しても、ぼくはもちろん、この世界が虚構である可能性はほぼゼロだと考えている。

つまり、この世界は現実に存在しており、家族や友人を含めたたくさんの人間がいて、社会の中では自分はただのひとりの人間で、大した存在ではないと思う。

ただ、「ほぼゼロ」と「ゼロ」は本当は違う。
現実的にはほとんど違いはないが、観念的には違う。

この世界に、絶対に存在しているといえるものは、自分だけなのだ。
自分というのは、自分にとってそれだけ絶対的な存在なのだ。

3段落前に書いた話と矛盾するようだが、それは、マスでみたところの
「社会」という世界のなかで、自分が「大した存在ではない」ということだ。
それとは別に、個々人に「自分の世界」というものが存在し、
その「自分の世界」は、自分の感覚から得る情報がすべてだから、
自分がみたもの、聴いたこと、感じた物事をインプットし、内的な世界を構築していく。

「社会」のなかで、周囲に気をつかって生きることは、処世術として必要かもしれない。
昔よりはるかに社会性が発達した現代では特に必要なスキルだろう。

ただ、「自分の世界」の中でまで、必要以上に周囲に気をつかって生きていく必要はない。
自分の世界の中では自分が絶対的な存在なのだから、もっと自分を中心に考えるべきなのだ。
つまり、「自分が」楽しいから、「自分が」やりたいから、そういう能動的な感情で行動を決めていいはず。というか決めるべきだと思う。


極論を言えば、この「自分の世界」を豊かにすることこそが、
生きる意味というものなんじゃないかと思っている。
自分の世界なのに、自分をいちばんに考えていないと、自分の世界まで
他人に気をつかうことに支配されてしまう。
自分の世界なのに自分の世界じゃなくなってしまう。

少なくとも自分は、自分をモブキャラ扱いしてはいけない。
自分の世界の中では、自分が主人公だ。
自分の世界を、能動的に、自分のやりたいように、作っていくべきだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?