自分のために生きるということ

寝る前に考えたことのメモ。
明日見返して直すかも。

「誰かのために」というのがおこがましくて好きじゃない。
すべての行動は自分のために行われるべきだ、というのが自分の考え。

自分のためにした行動が、結果的に誰かの役に立つことはあるかもしれないが、役に立っているかどうかはその誰かが決めることであって、自分が決めることではない。

困っていそうな人に手を差し伸べるのは、自分がそうしたいからであって、相手のためではない。
助けることは、相手のためになるかもしれないし、かえって迷惑になるのかもしれない。それは自分ではなくて相手が決めることだ。

自分のためにすることだから、当然ながら見返りを期待しない。感謝される必要もない。
自分がしたくてやったことだから、感謝されようが、怒られようが、行動したこと自体に満足すべきだ。もちろん、感謝されたらうれしいし、迷惑がられたら残念だけど。

「忠告」とか、おこがましすぎるからとてもできない。「意見」ならいいけど。意見は、自分が言いたいから言ってる言葉だから。
でも、「説教」は違うな。説教は、相手が間違ってて自分が正しいという前提でされるものな気がするから、これもとてもおこがましい。
「批判」はどうだろう。批判は、自分が言いたいから言ってるってのはいい。ただ、やっぱり、自分が正しくて相手が間違っているという前提はある気がする。100パー自分が正しくて100パー相手が間違ってることなんてそうそうないよなと思う。

自分を犠牲にして他人を助けようとする生き方は尊敬に値すると思うけど、その人も、きっと自分のためにそういう生き方を選んでいるのだと思う。
自分はとてもじゃないが幸福な王子にはなれないけど、もちろんその生き方を尊敬するし、そして、王子は幸せな死を迎えたのだと思う。

自分は大切なものに明確に優先順位をつけている。
自分の命よりも大切なものは自分の妻子だけだ。
そして、自分の命より妻子の命を優先するのは、妻子がいない世界で生きることの方が死ぬことよりも恐ろしいことだからで、これも自分のための選択だ。

利己的な行動と利他的な行動は矛盾しない。
直接的な「誰かのため」の行動は、ただの独善かもしれない。
利己的な行動が、結果的に、誰かのためになるかもしれない、それが望ましい。

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