ふたつの世界

以前も書いたけど、人間にはふたつの世界がある。

ひとつは、自分も含めた多くの人々が暮らしている、
「世の中」とか「社会」とかともいう、みんなの共通の世界。
もうひとつは、自分の感覚や考え、感情からなる、自分だけの世界だ。

ふだん生きていく上で、多くの人が注意を払っているのは前者で、
それは社会で生きていく上で当然必要なことなのだけれど、
個人の幸せとか、生きがいとか、充実感とかにつながるのは、
実は後者なのではないか、という話。


生まれたばかりの赤ちゃんにとって、このふたつの世界は同一であり、
成長するにつれて自分以外の他者の存在を認識するようになって、
徐々にこのふたつの世界は離れていく。
しかし、まだ小学校低学年くらいは、両者の境界は曖昧で、
自分の世界を中心として生きていたはずだ。
それが、思春期と呼ばれる、他者の視点を強烈に意識する年代になって、
「世の中」とか「社会」とか呼ばれる、共通の世界を
はっきりと意識し、そのなかで生きていく術を学んでいくわけだ。

これはもちろん通常の発達の過程だけれど、大人になったときに、
子どもの時とは逆に、「世の中」「社会」に気をとられすぎて、
自分の世界をおろそかにしている人が多いように思う。


心理学でいう「認知の歪み」というもののひとつに、「すべき思考(should statements)」というものがある。
「大人なんだから我慢すべきだ」とか「体調が悪くても出勤すべきだ」とか、そういう類の考え方。

これは典型的な「世の中」「社会」を中心とした思考パターンだ。
自分の世界を中心とした考え方で言えば、「やりたいからやる」、
「やりたくないからやらない」であり、「~すべきだ」とはならない。

どちらがストレスをためる考え方かは言うまでもない。

ただし、ほとんどの人は一人で生きているわけではなく、社会の中で生きているから、自分のやりたいことだけやって生きていくことはできない。
やりたくないことをやる、苦手な人と付き合う、そういうことが必要になることも当然あるだろう。

しかし、究極的には、「世の中」よりも「自分の世界」を大事にすべきだ、と思う。


オーストラリアの首相が、長期的な森林火災で国中が大変な時に、
クリスマス休暇をハワイで過ごして批判を浴びているらしい。

詳しい事情を知らない上で無責任な発言をすると、首相にとって、
「クリスマス休暇をハワイで過ごす」という自分の世界の考えが、
「国が大変だから首相としては休暇返上で対応すべきだ」という考えを
上回ったというだけのことだ、と思う。

荒唐無稽な話だけど、例えばこの首相に、病気で長く生きられない子供がいたとして、その子供が「死ぬ前に家族でハワイに行きたい」と言っていたとしたら、果たしてこの首相の決断を批判できる人がいるのだろうか。
そこまでわかりやすい話でなくても、何か、家庭を優先すべき決定的な理由があったのかもしれない。
個々の事情はその個人にしかわからないのだから。

その「自分の世界」の事情と、社会的に批判を受けるとか政治家としてマイナスイメージになるとかのデメリットを天秤にかけて、前者を選んだ、というだけにすぎない(個人的には「~なんだから~すべき」と言って批判する人は好きじゃないけど、首相としてはそれも覚悟で行動したのだろうから、批判したい人はすればいい)。
天秤のどちらが重いか、それは本人にしかわからないのだから、本人が
決めるしかない。


ここまで重大でないにせよ、生きていく上で、社会で求められる(=すべき)役割と、自分のやりたいことを天秤にかけて、どちらかをとる、というような選択をぼくらは常にしていかなければならない。

しかし、前者の、自分の求められている役割を果たすことを無条件に優先して、結果的に自分を苦しめてしまうパターンの人が、特に日本人は多いように思うのだ。

「取引先に迷惑をかけるから、体調が悪くても出勤しないといけない」
「仕事が終わらないから毎日遅くまで残業になっても仕方がない」
「兄弟の誰かが親の面倒をみないといけない」
「義理の両親とは嫌味を言われてもうまく付き合わなければならない」
「子どもがかわいそうだから離婚しないで我慢しなければならない」
「がんばって勉強していい大学に入っていい企業に就職しないといけない」

自分の世界における考えと、社会で求められる役割を、ちゃんと天秤にかけた上で、役割の方を選択しているのであれば問題ないけれど、最初から「そんなの無理だ」と自分の希望を否定して役割を優先すると、どんどん苦しくなっていってしまう。

人は、自分が能動的に選択したことであれば、結果がどうあれ受け入れられるものだ。
求められる役割を演じることを「自ら」選択したのであれば、つらくても「自分が決めたことだからしかたない」と思える。
しかし、天秤にかけることなく無条件に役割を演じる方を選んでいると、
「自分はなんでこんなことをしてるのだろう」とか、もっと言えば、
「なんのために生きているんだろう」と、自分の世界を見失ってしまう。


「自分の世界」を豊かにすること、なるべく主体的、能動的に生きる選択をすること、それこそが、限りある「生」を豊かにする手段だ、というのが自分の考えだ。

仕事を休みたければ休めばいいし、辞めたければ辞めればいい。
結果を受け止めるのは自分だ。
家族だからって自分を犠牲にして介護をしなければならない理由はない。
したければすればいいし、したくなければしなければいい。
進学するかしないかだって自分で決めることだ。自分の人生なのだから。

他人にどう思われるか、なんて、自分の世界では何の意味もない。
自分の世界の中には自分しかいない。自分で自分の行動を認めるかどうか、ただそれだけの話だ。誰の「いいね」も必要ない。
批判したり、「~すべき」とか言ってきたりする他人の言うことを聞いたところで、その結果がどうなっても、何の責任もとってくれない。
信頼できる人の言葉には耳を傾けたらいいけど、どうでもいい人の話を聞いても時間と労力の無駄遣いでしかない。そんな暇はない。


自分の世界を豊かにすることは、もっとわかりやすく言えば、
「自分が幸せになるために生きる」ということだ。

選択肢があったとき、「自分の気持ち」と「社会で求められる役割」を天秤にかけて、それぞれにどんなメリットとデメリットがあるかを想定して、長期的にみてどちらが幸せにつながるかを総合的に判断して決めることが、
なるべく後悔しないための生き方なのではないだろうか。

もちろん、人間なので、充分考えたつもりでも、あとから考えると間違っていた、ということもあるだろう。
それでも、人間は神様ではないので、その時に充分考えて出した結論は、その時点での正解だった、と受け入れるしかないのではないかと思う。

また、「間違っていた」と思った時点で、可能であれば、途中で別の道に路線変更したっていい。
「失敗だった」というのは、実際に失敗したからこそわかることだ。
RPGで洞窟を探索していて分かれ道にあたったとき、右の道が行き止まりであることは、右の道に行かないと永遠にわからない。
最初から左の道に行ったとすると、本当はそれが正解なんだけど、「右の道には宝箱があったかもな」と、ずっと後悔することになるかもしれない。


神様ではない人間にとっては、先の見えない未来を、今ある情報を手がかりにそのつど判断しながら、その時点でのよりよい選択肢を選んで人生を進んでいくしかない。

もちろん、希望通りにいかないことの方が多い。失敗もあるだろうし、つらいこともあるかもしれない。

それでも。

自分がやりたいかどうか。
やりたくないことであっても、自分が主体的に選択しているかどうか。
そして、その選択が自分の幸せにつながると思っているかどうか。

これらを自問自答して、そのつど選択していくこと。
それが、未来に絶望したり、生きる意味を見失ったり、自分の選択を後悔しないために、必要なことなのではないかと思う。


当たり前のようでいて、意外と忘れてしまいがちなので、やりたくないことをやらなければいけないときや、自分がストレスを感じるようなときは、このことを思い出すようにしている。

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