常識という鎖

「動物のお医者さん」というマンガに「パフ」という犬が出てくる。
パフは子犬の頃から逃げ出さないようにラジカセに繋がれていたので、もうそのラジカセより大きくなって、ラジカセを引きずって動かせる力があるにも関わらず、そのラジカセに「繋がれて」動きを制限されている、という話。


ほとんどの人は、物心つく前の小さい頃から、親など、周囲の大人から、「人にやさしくしなさい」とか、「誰かを傷つけてはいけません」とか、行動の基盤となるような教育を受ける。

それは成長してからも社会で生きていく上で根幹をなす大切なものなのだけど、別の言い方をすると、それは親の価値観であって、いわば「お手本」だ。
お手本通りにやる選択肢もあるけど、別のやり方もあって、どちらが正解というものではない。
なので、ある程度おおきくなったら、お手本と別のやり方を試してみてもいいはずだ。

成長していく中で、親の価値観と本人の価値観に微妙なずれが生じてくるのは当然で、親の価値観を押し付けられることを煩わしく感じて反発したくなる。
これが反抗期というやつで、発達の過程としては健全な状態と言える。

ちなみに子の反抗期は親にとっても必要な過程だと思っていて、それまで基本的に自分の言うとおりに育ってきた子供が、実は自我を持った、自分の思い通りにはならない「他人」だということに気づく上で、必要な通過点なのではないかと思う。

ということで、それまで自分の価値観だと思っていたものが実は親の価値観であったことを認識し、それを基盤にした上で自分なりの価値観を作っていく、そういう作業を、おとなになってからしなければならない。


ただ、冒頭のパフの話のように、小さい頃に刷り込まれた価値観を変えるのは案外難しい。
自分が思うに、それは、親の「価値観」ではなく、「常識」という言葉に置き換えられてしまっているからではないだろうか。


「常識」とはなんだろう。
Google先生によれば、「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別」が「常識」であるという。
「健全な」とか「普通の」とか、基準がよくわからない曖昧な形容詞で説明される「常識」とは、いったいなんなんだろうか。

「価値観」とは主観的なもので、ひとそれぞれ違う。
一方で「常識」は、定義からすると、ほとんどの人が共通してもっているものだという定義だ。

つまり、「常識」と呼ばれる、みんなが共通して持っている部分は価値観の中の一部であり、ほかの部分は「常識」ではない。

例えば、「人を傷つけてはいけない」というのはまあ常識といって差し支えなさそうだが、なかには「やられたらやりかえせ」という価値観をもっている人もいるだろう。
「人にやさしくしましょう」という意見に異をとなえるひとは少ないと思うけど、何十人もの犠牲者を出して、おそらく死刑になるであろう京アニ放火事件の犯人を、病院で集中的に治療することに違和感を感じるひとがいるであろうこともまた事実だ。


よく考えると、「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別」などと言うものは、おそらく自分の価値観のごく一部にすぎないのだと思う。
それなのに、人は往々にして、「そんなの常識だ」という類の言葉で、自分の価値観を押し付けたがる。
そして、自分自身に対しても、自分の価値観に合っていないのに、「常識だから」という理由で、やりたくないことをやり、ストレスをかかえるわけだ。


そう、ぼくは「常識」という言葉が嫌いだ。
個人の価値観なのに、それを強制されているような押し付けがましさを感じる。
ぼくに言わせれば、「常識」なんて「犯罪を犯さない」程度の共通認識であればよくて、法に触れなければ各々好きに生きたらいい。

ぼくはもう何年も年賀状は返していないし、出たくない飲み会には参加していない。友だちもごく少数しかいないし、近所付き合いもしない。
それを非常識だと言われてもなんとも思わない。

子供が自分を犠牲にして親の介護をする必要なんてないし、
親も自分を犠牲にして子供のためにすべてを捧げる必要はない。
近所付き合いもママ友の付き合いもやりたくなければやる必要はないし、
本人がそれでいいならフリーターでいたってかまわない。


もちろん、自分の好きなことだけをして生きていくわけにはいかないけど、
すべての場面において、自分が主体的に意思決定をしていくことが大切だ。
やりたくないことでも、「自分が」やると決めてそれを行うことが重要だと思う。

自分が決めたことなら、結果がどうあっても、それは自分の責任だから、
うまくいかなかったとしても仕方がないと受け入れられる。

ただし、自分以外の他者への影響(迷惑をかけること)については、あまり
過度に責任を負う必要はないと思う。
誰にも迷惑をかけずに生きていくことなんて不可能だし、相手にとって
よかったか悪かったかなんて簡単にはわからない。

思うに、日本人は「人に迷惑をかけるな」という「常識」に縛られすぎている。
「人に迷惑をかけるな」と言われる割に、「自分を大事にする」という、いちばん大切なことがはっきり伝えられないから、自分よりもまわりの迷惑を気にして思うように行動できなくなってしまっている気がする。
「人に迷惑をかけないこと」よりも、「自分を大事にすること」のほうが大切だ。


なるべく自分の生きたいように生きること。
すべての選択肢を自分が主体的に選んで意思決定すること。
やりたくないことをするときも、「それを選んだのは自分だ」という意識をもつこと。
うまくいかなかったことについては「自分が決めたんだから仕方ない」と思うこと。
他者への影響を過度に受け止めすぎないこと。

「常識」という鎖は、「パフ」にとってのラジカセだ。
動物のお医者さんには、「それに気づいたときラジカセ犬パフの世界は広がる」とある。

無意識のうちに、今までずっと縛られていて身動きがとれないと思っていた鎖は、おとなになって改めて考えてみると、自分で壊せるおもちゃの鎖なのだ。

常識なんてものに縛られるのはやめよう。

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