生きる権利、死ぬ権利

死について考えることが好きだから、自ずと、ここにも定期的に死の話が出てくる。

死生観という言葉があるように、自分の生を考えるとき、それは死と隣り合わせであり、切っても切れない関係にある。
生が有限である以上、「生きる」ということはつまり「死ぬまで生きる」ということだから、死を意識しないほうが不自然だと思う。

好きだったマンガに、「余命いくばくもない人間だけが なぜ刹那的に生きる事を許されるのか」というセリフがあった。20年以上も前のマンガのセリフを覚えているのだから、当時の自分にはよほどインパクトがあったのだろう。

すべての人間は死から逃れられない以上、余命宣告を受けている病者と根本的には同じだ。
「明日地球が滅亡するとしたら今日何をするか」のような命題があるけど、実際には、死神が来て「明日死にます」と伝えてくれるような、わかりやすい予告はない。
だとすれば、毎日、「今日が最後かもしれない」と思って生きることが、死に際して後悔しない生き方なのではないか、というのが自分の考えだ。


さて、世の中には、「後悔しない生き方」とか、「生きたいように生きる」とか、どう生きるかについての話題はたくさんあるし、自分も今までのエントリーで同じような話を書いている。

言うまでもなく、人間には、各々が自分の生き方を決める権利があって、生き方を主体的に選んでいくことが、各人の幸せにつながるのだと思っている。

特に、今は生き方の多様性が以前より認められている社会になりつつある。
幸せの形はもちろんひとつではないから、個人の価値観にしたがって、自分なりの生き方を追求できる時代になってきていることはすばらしいことだと思う。


それなのに、なぜ、「死ぬ権利」については許容されないのだろう。


最初にも書いたが、生き方と死に方は密接に関係している。
どう生きるかを自分で選択していった先に、必ず死があるはずなのに、なぜ「死」を自ら選択してはいけないのだろうか。


これは尊厳死の議論とももちろん関係してくる話で、個人的には尊厳死を認めるべきだという立場だが、今回の話は尊厳死のような、治癒の見込みがないとか死が迫っているとかそういう前提がなく、さらに倫理や法律も抜きにした、哲学的な話。

つまり、病気の有無などは一切関係がなく、その人が「死にたい」と感じているとき、「死ぬ権利」はなぜ認められないのだろう、という話だ。


もちろん、死にたい気持ちが、うつの症状としての希死念慮である場合、それは治療の対象であり、正常な状態における本人の判断とは異なる考えであるとされるので、その場合に関しては、死ぬ権利は認められるべきではないと言える。

ただ、「死にたい」と思っている人が、全員うつ状態にあるわけではない。
うつ状態ではなく、その本人の普段の判断に基づいて、「死にたい」と考えることは、当然ながらありうる。

最もわかりやすい例でいえば、災害や事故などで、最愛の家族や恋人を失った場合。
「彼(彼女)のいない世界で生きていたくない」と思うことは何ら不自然ではないし、それはうつの症状ではない。
その人にとっては、生きていること自体が地獄のような日々になってしまっているのかもしれない。
それなのに、その人はそれでも生きていなければならないのだろうか。死を選択する権利はないのだろうか。

もちろん、その人のことを大切に思う人もいて、その人のために生きる、という選択肢もあるだろう。
しかし、究極的には、生は自らのためのものであり、他の誰のためのものでもないはずだ。
だから、その人のことを大切に思う人がいるからと言って、地獄のような日々を生きなければならない理由にはならない。


こういうわかりやすい例に限らず、その人の生が幸せなのか、苦痛なのか、それは本人が決めることだ。
幸せそうに見える人が幸せとは限らない。その人よりもっと不幸な人がいるとかいないとかは全く意味がない。本人の主観がすべてだ。

その人が、つらい生を変えたい、幸せに生きたい、と願うのであれば、考え方を変えるような心理療法的アプローチはきっとあるだろう。
ただ、本人にその気がない人に、「こういう考え方もあるよ」とか、「もっとプラスのことに目を向けようよ」とか、そういうことを押し付けても何も響かないし、価値観の押し付けでしかない。
考えを変えたいと思う人だけが変えることができるのだ。
「そんなのはいいんだ、自分はもうとにかく人生を終わらせたいんだ」という人に、「それでも生きなさい」という権利が、他人にあるのだろうか。


もちろん、自死は残された遺族の心に、一生消えない大きな傷を残してしまう。
当然、そういう痛ましい事象はひとつもないほうが望ましいし、助けられるはずの命がひとりでも多く救われることを切に願っている。

ただ、自死を選んだ人は、ひとり残らず不幸だった、とは思わない。
正常な状態で、熟考して、自ら能動的に死を選んだとしたら、それはもう本人の生き方なのではないか、と思う。
それを、勝手にかわいそうだと思ったり、不幸だと決めつけたりするのは、本人の生き方を否定する行為だ。


言うまでもないが、自分は、自死を推奨しているわけでも、自分がいま死にたいわけでもない。
繰り返すが、法律も宗教も倫理観もすべて抜きにした、哲学的な話だ。

誰もが自分の人生を生きる権利がある。
ただ、生はあくまで権利であって、義務ではない。
生きる義務なんてものは、宗教や倫理の中にはあるかもしれないが、普遍的なものではない。
ならば、自分の人生を好きな時に終わらせる権利もあるはずだ。
生の意味なんてものは自分の中にしかないのだから。

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