テセウスの船と輪廻について

ぼくの好きな「フィロソフィーのダンス」というグループの作詞を手掛けていらっしゃる、作詞家のヤマモトショウさんのnoteがとても興味深くて、それをもとにあれこれ考えたのが今回のエントリー。

「テセウスの船」で考えるアイドルグループ 走り書き20200208
https://yamamotosho.com/n/n73a0d4bb04f6

(こういう場合の作法がわからないので、直接リンクを貼ることが失礼に当たるとしたら申し訳ありません)

「テセウスの船」とは↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%BB%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%88%B9

「テセウスの船(テセウスのふね、英: Ship of Theseus)はパラドックスの1つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体(オブジェクト)の全ての構成要素(部品)が置き換えられたとき、基本的に同じであると言える(同一性=アイデンティティ)のか、という問題である。

プルタルコスは以下のようなギリシャの伝説を挙げている。

テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウス[1] の時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。
プルタルコスは全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのかという疑問を投げかけている。また、ここから派生する問題として置き換えられた古い部品を集めて何とか別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船なのかという疑問が生じる。」(wikipediaより抜粋)

ヤマモトショウさんも書かれているけど、「テセウスの船」をモー娘。で例えると、
「初期とメンバーが全く違う今のモーニング娘。は、最初に結成されたモーニング娘。と同じグループと言えるのか?」
そして、
「過去のメンバーで構成されたドリームモーニング娘。は、モーニング娘。ではないのか?」
というパラドックス。

前半に関しては、時間的な連続性を考えれば、そこに同一性は存在すると言えるだろう。
ずっと見てきたファンにとっては、モーニング娘。は、ある時いきなり全員入れ替わったわけではない。
少しずつメンバーが変遷してきている時期も、当然モーニング娘。として存在しており、時間的には連続していて、切り口の時間的な差によってメンバーが異なる、というだけの話だ。
ファンではない他者が、初期と現在を比べると別のグループに見える、ということであって、それは「3歳のときの写真と20歳のときの写真がまるで別人」と言ってるようなものだから、時間を飛ばして比較してもあまり意味がない。

後半のドリームモーニング娘。はどうだろうか。
確かに過去に在籍したメンバーで構成されているから、そこに同一性がないとは言い切れないが、こちらは卒業後のある時点で急に出現しており、そこにモーニング娘。との時間的連続性はない。
だからこそ、違う名前で活動しているのだろう。


違う例で考えてみる。

一澤帆布の一連の騒動を少しでも知っていれば、過去の一澤帆布と時間的に連続しているのは一澤帆布ではなく、一澤信三郎帆布であると考えるのが自然だ(今は三男の正当性が認められ、名実とも同一のものになっているが)。

これをアイドルグループ(仮にAとする)で言うと、当時いたメンバーとプロデューサーが全員脱退して新しいアイドルグループBを立ち上げ、もとの事務所の社長が新しいメンバーを集めてAを名乗っているような状況であったわけだから、ファンは当然Bに対して同一性を認め、Aを応援しようとは思わないだろう。

テセウスの船に置き換えて考えてみると、オーナーが急に船名を取り上げて新しい船にそれをつけたとしても、船名をとりあげられた船の方に同一性があるという考え方が自然だ、ということだ。


機能的な同一性についてはどうだろう。

BiSというアイドルがいる。
ファンではないから雑な紹介で申し訳ないが、過激さが売りのアイドルグループだ。
そのBiSは、他のグループのような脱退・加入という変化以外に、解散→その後ほぼ一新したメンバーで再結成、という劇的な変化があり、現在は3期目になっている。
メンバーも異なり、時間的な連続性もないグループが、引き続きBiSというグループ名を名乗っているわけだ。
同一性があるとしたら、グループとしての理念とかスタイル、方向性だろうか(もちろん楽曲も)。
つまり、BiSというのは固有名詞であると同時に、そのようなスタイルのアイドルを表す一般名詞に近いのかもしれない。
第1期と第2期の間には2年のブランクもあり、本来の意味での同一性をそこに見出すファンは少ないと思われる。
機能的な同一性だけで、同一のものだと認識するのは無理がありそうだ。


つまり、同一性には、構成する物質的要素と、変化していく途中の時間的連続性が必要であるというわけだ。


これを人間に当てはめて考えてみたい。

生物には、成長、もしくは老化という変化が常にある。
成長期の子どもなどは、数年会わないとまるで別人のようになり、同一人物だと気づかないこともあるかもしれない。
また、数十年ぶりの同窓会では、あまりの変わりぶりに誰だかわからない、ということもあるだろう。

ただ、当たり前の話だが、毎日会っている家族、もっと言えば、毎日鏡で顔を見ている自分は、「まるで別人だ」とか、「誰だかわからない」とか、そんなことには当然ならない。
それはもちろん、その変化を連続的に見て、知っているからだ。自分の子供は急に大きくならないけど、よそのうちの子はちょっと見ないうちに急に大きくなるのと同じ理屈だ。

細胞は常に新しいものと入れ替わっている。
中枢神経細胞などは生涯更新しないとされているが、再生医療が進歩すれば、中枢神経細胞の入れ替えも不可能ではないかもしれない。
しかし、体の細胞すべてが数十年前と全く変わっていたとしても、そこに時間的な連続性があれば、同一人物といってよいということになる。


クローンはどうだろうか。
体を構成している元素の配分はオリジナルと全く同じで、機能も同じだが、同じ元素だとしても、物質としては異なるものだ。10年間ずっと修理を繰り返しながら使い続けてきた万年筆と、全く同じ新品の万年筆のような違いだ。同じ種類のもの(型番は同じ)だが、同一のものではない。
そして、クローンには時間的な連続性がない。ある日突然出現して、その当人を名乗られても、周囲は受け入れられないだろう(クローンであることに気づかなければ受け入れられるだろうが)。亡くなった配偶者が、実はクローンを用意していて、死後しばらく経ったあとにクローンが現れて「また夫婦としてやっていこう」と言われても、同じ人物としてすんなり受け入れられる人はいないはずだ。

「死について思うこと」というエントリーでも書いたとおり、睡眠によって自分自身の時間的連続性が担保されていないため、自分がいつの間にかクローンと入れ替わっている可能性は否定できないのだが、それは証明できないのでその可能性を考えないとすると、幼少期と今の自分とがいくら変わっていようが、時間的な連続性がある以上、やはりそれは自分だと名乗ってよいのだろう。


反対に、代謝され、自分の体から排出された元素たちに目をむけてみる。

生物の体を構成しているのは、ほとんどが水素と炭素と窒素と酸素で、それ以外にナトリウムやカリウム、塩素、リン、硫黄、カルシウム、鉄などの微量元素が含まれる。タンパク質も脂質も炭水化物も核酸(DNA、RNA)も、体のすべてはこれらの元素で作られている。代謝を繰り返す中で、生物はこれらを継続して摂取すると同時に排出しているわけだ。
つまり、かつて自分を構成していた細胞が代謝されたとき、(再利用されなければ)これらの元素は排出されていく。

信じられないほど低確率の話だが、ぼくから排出された元素たちが、微生物や様々な生物を介して、また誰かの体内に入り、偶然、その瞬間にその人を構成する元素すべてが、昔ぼくの体を作っていた元素に置き換わってしまったとすると、かつて自分を構成していた物質からなるその人は、ぼくと同一人物なのだろうか?

しかし、これはモーニング娘。とドリームモーニング娘。の関係と同じで、ぼくがモーニング娘。だとすると、ぼくの体から卒業していった元素たちで構成されたその人はドリームモーニング娘。であるから、物質的な同一性はあっても、時間的な連続性がない以上、その人はぼくと同一人物ではない。


ただ、これが、ぼくの考えるところの、この世の輪廻というものなのかな、と思ったりするのだ。


ぼくは、いわゆる「魂」というものの存在を信じない。科学的に説明できないものは存在しない。
人の考え、意志、感情、そのようなものは「高次脳機能」というもので、あくまで脳の活動の結果であるから、脳が死んでいるのに魂だけ存在するわけがない。

ただ、この地球上にある元素の数は決まっている。
それが、さまざまな物質に形を変え、利用され、壊れ、また何らかの形で再利用されていく。
今の自分を構成している元素たちも、かつて何らかの生物の体を構成していたり、深海の水であったり、マグマの中の硫黄であったり、成層圏の空気だったかもしれない。それらの元素が形を変え、今は自分の体を構成している。
そして、自分の体であったものも、代謝されて体外に排出されたり、もしくは死んで灰になったり、土に還ったりして、巡り巡ってまた何らかの生物の体を構成する要素になるかもしれない。

つまり、魂だけで輪廻はしないが、物質は輪廻している。
ぼくの細胞の一部が、形を変え、誰かの細胞の一部になることは充分考えられる。

例えば、ぼくの血を吸った蚊から産まれたボウフラたちは、ぼくの血液に含まれる元素を原材料として作られているから、テセウスの船で言えば、古くなった船の廃材から作ったおもちゃの船みたいなものかもしれない。
それをテセウスの船とは言えないけど、テセウスの船の一部と言ってもあながち間違いではない気がする。
そのボウフラたちを食べたカエルを別の動物が食べて、巡り巡って人間が食べ、その人の体の一部になることもあるかもしれない。

そうすると、大げさに言えば、その人の一部を構成するのは、もともとぼくであったものだ。
反対に、今のぼくを構成している元素は、すべて、もともと誰かの体を構成していた元素であったかもしれないものなのだ。


死ぬと、個体は消え、個体を構成していた元素はバラバラになる。
しかし、地球規模で見ると、そうしてバラバラになった元素たちがまた集められて、次の有機体を構成する要素となる。
物質的には、死んでも消失するわけではない。原材料に戻るだけだ。



ソクラテスは、哲学は「幸福への道」であるといい、その「幸福への道」の哲学とは何かとの問いに、「死の予行演習」と答えたそうだ。

こんなことを、今まさに考えている自分というものは、今ある脳細胞の活動によるものであるから、ぼくが死んだらこう考えている自分もいなくなるわけだけど、ぼくを構成する物質はその先も存在し続けて、もしかしたらまた誰かの脳細胞の一部に使われて、同じようにとりとめのないことを考えたりするのかな、と思うと、それはなかなかおもしろいことだな、と思ったりしている。

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