倫理や道徳は自分を律するためのものである

価値観は人それぞれに異なる。
好ましいとされる価値観はあっても絶対的な正解はない。

価値観が異なる人が同じ社会で生活するために最低限のすり合わせを行うためのもの、それが法だ。
法に触れたら価値観の自由は認められない。
逆に言えば、法に触れなければ、価値観の自由は保証される。

自粛の推奨や要請には法的拘束力はない。
多くの人は協力するだろうが、価値観の異なる一部の人たちは従わないだろうし、経済的な理由で自粛している場合ではないという人もいるだろう。
その人たちに、自粛を強要する権利は、他の誰も持っていない。


自分は医療者の端くれなので緊急事態宣言に関係なくもう1年近くずっと自粛しているし、みんなが自粛して感染が減ればいいなという思いはあるが、かといって自分の価値観が絶対に正しいというつもりはないし、自粛しない人たちに腹を立てたり苦々しく思ったりはしない。そんなことは時間と労力の無駄だ。
むしろ、声高に自粛を強要し、それを当然だと思っている傲慢さの方に窮屈さを感じることが多い。

自粛を強要する人たちは、あえて嫌な言い方をするなら、「あなたの価値観は間違っていて」、「私の価値観は正しいんだから」、「あなたは自分の価値観を曲げて私の価値観に従いなさい」と言っているということだ。

自粛がテーマだから許される雰囲気があるけど、これが「少子化対策のためには若い人はみんな早く結婚して子供を数人作るべきだ」という価値観だったらどうだろう。
少子化の原因は晩婚化と未婚率の上昇だから、少子化対策という観点においてはその主張は間違っていないし、昭和の時代にはその価値観は多数派だった。
だから未だにおばあちゃんや親戚のおじさんおばさんはそういう価値観を押し付けて嫌がられるわけだ。
「少子化対策のために若い人はみんな結婚して子供を作るべき」という主張と、「医療崩壊を防ぐためにみんな自粛すべき」という主張には、自分の価値観を押し付けているという点で差はない。


倫理や道徳という言葉になるととたんにそれが正しいことのように錯覚してしまうが、本来、価値観によいも悪いもないし、時代とともに変遷するものだ。
倫理や道徳は自分の生き方を律するためにあるものであり、他人を縛るためのものではない。他人を自分の価値観で縛ることはできないし、他人の価値観を変える権利もない。
他人をコントロールしようとする、あるいはコントロールできる、と思うことがストレスを生む。期待をしなければ腹も立たない。
「自分と同じ価値観をもっているはず」とか「もってくれるはず」とか、無責任な期待をしてはいけない。変えられるのはいつだって自分だけだ。

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