人生の価値は終わり方だろうから

ヨルシカをよく聴いている。
曲も、ボーカルもとてもいいのだけれど、何より歌詞がいい。
若い世代に支持されるのもよくわかるし、自分も若い頃に出会いたかったと思うが、歳をとっても、よい音楽をちゃんと好きでいられてよかったとも思う。

タイトルは「藍二乗」の詞の一節。

受け取り手により、さまざまな解釈ができるのがよい歌詞だと思う。
きっとこの一節も、人によって異なる解釈があるのだろう。


この歌詞を聴いて、前の奥さんのお父さんが、以前、お酒を飲みながら言っていたことを思い出した。

「つらいことや悲しいことがあっても、死ぬ間際に、ああ、いい人生だったな、って思えたら、それでもう最高の人生なんだよ」

とてもいいお義父さんお義母さんだった。
彼らは何も悪くないのに何度も謝って、心配してくれた。
大好きな人たちにもう会えないのは悲しい。
元気で、幸せでいてほしいと心から願う。


「幸福への道」の哲学、というエントリーで、自分の人生観について書いた。
要約すると、人生は結果ではなく過程か重要だから、なるべく幸せな時間を積み重ねていくことが幸せにつながる、という考え方。

ただ、どうしても、つらいことや悲しいことをゼロにすることはできない。
だから、それをどう消化するかが重要。
なるべく、つらさや悲しみにとらわれず、今ある幸せを見逃さぬようにして、幸せだと思える時間を増やすこと。
それができたら、死ぬ間際に、「ああ、いい人生だったな」と思えて、穏やかな気持ちで死を迎えられるのではないだろうか。

それが、ぼくの解釈する、「人生の価値は終わり方だろうから」だ。


祖父が68歳、父が64歳で他界しているので、簡単な数列の問題の解を求めるように、ぼくは自分の寿命を60歳と設定している。
もちろん、まだ小さい子供もいるし、できればもう少し長く生きていたいが、こればかりは神のみぞ知るものだし、また、長生きしたから必ず幸せになれるわけでもない。

60年の人生を1日に置き換えると、自分ではまだ昼間だと思っていたのに、気がつけば、もう夕方の6時を過ぎてしまった。
残された時間はあと5時間半程度だ。

死ぬのはやっぱり怖い。
でも、かと言って、若い頃に戻りたいとも思わない。
相応に経験を重ね、たくさんの人たちによって作られた、今の自分がいちばん好きだ。

何度も書いているが、ソクラテスは、「幸福への道の哲学とは、死への予行演習である」と語ったとされている。
死を意識することで、自分にとって有意義な生の時間を積み重ね、そして、最期の瞬間、「ああ、いい人生だったな」と思いながら死を迎えたい。

人生の価値は、終わり方だろうから。

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