ヒューリスティクスと情報リテラシー

ヒューリスティクスという心理学の用語がある。

wikipediaの説明には、「心理学における発見的手法(ヒューリスティクス)は、人が複雑な問題解決などのために、何らかの意思決定を行うときに、暗黙のうちに用いている簡便な解法や法則のことを指す。これらは、経験に基づくため、経験則と同義で扱われる。判断に至る時間は早いが、必ずしもそれが正しいわけではなく、判断結果に一定の偏り(バイアス)を含んでいることが多い。なお、発見的手法の使用によって生まれている認識上の偏りを、「認知バイアス」と呼ぶ。」とある。

簡単に言うと、人は、何らかの問題に対して推測したり判断したりするとき、過去にあった似たような経験に基づき、推論や判断を行う、というものだ。

たとえば、銃声を聞いて現場に駆け付けたひとりの警官が、現場から立ち去ろうとする2人の姿を見かけたとき、そのうちの1人がスーツを着たサラリーマン風の中年男性、もう1人がタトゥーを入れた金髪の若者だったとしたら、おそらくとっさの判断で後者を追いかけるだろう。

この手法のメリットは、判断する時間が早くなることだ。前述の例の場合、外見でひとを判断してはいけないとはいえ、ほかに情報がなく、詳しく検証している時間がないとすれば、それが合理的判断だ。

一方で、ヒューリスティックに判断すると正確性が低くなる、というデメリットもある。

救急外来で、1年目の研修医が急患の対応に当たることになったような場合、彼は自分の経験に照らし合わせて自分で判断して治療を行うべきだろうか、それとも指導医に指示を仰ぐべきだろうか。
当然、一分一秒を争うような状況であれば、指導医への連絡は看護師さんにまかせて、自ら判断して治療を始めるべきだろう。しかし、それ以外の場合では、自身の経験に照らし合わせて治療するより、指導医の指示を仰ぐことを優先すべきだ。理由はもちろん、スピードよりも正確性の方が優先される状況であるからだ。

つまり、ヒューリスティクスにより、判断のスピードは格段に上がるが、そのぶん正確性がトレードオフになるということだ。


実際の問題には、時間をかけても正確に判断しなければいけない部分と、経験則からすばやく判断していい部分とが混在していることが多い。
重要なことほど正確性が求められるし、さして重要でないようなことはスピードの方が大切だ。
「赤と青の線、間違った方を切れば爆発する爆弾」みたいな状況であれば、残り1秒になるまで丹念に調べて正確性を上げた方がよいが、「傘を持っていくかどうか」みたいな案件であれば、電車を1本遅らせてまで天気予報を確認するより、自分で空模様を判断してさっさと家を出たほうが良い。

ただ、どちらにせよ、「正確な情報(=事実)」の部分と、ヒューリスティックに判断した「推論」の部分とを、自分自身が認識しておく必要がある。
どこが事実で、どこが推論であるかがごっちゃになってしまうと、考えを先に進めるときに、推論を前提とした推論をしてしまう危険がある。
推論に推論を重ねると、最初の推論にずれがある場合、さらにそのずれが大きくなってしまう。
どこまでが客観的事実で、どこからが自分の仮説なのか、それを把握しておくことが大切だ。


また、ヒューリスティクスというのは大雑把に言えば「経験則による判断」であるため、個々の認知バイアスの影響を受けやすい。

両親が教師である厳格な家庭で育った子供は堅い職業が最善だと思うかもしれないが、両親がミュージシャンであれば違う価値観に基づいて職業を選ぶかもしれない。学生時代に教師に対して不信感をもったまま親になった人は娘の担任を信用しないだろう。来る日も来る日も政治家の批判をしているワイドショーを見て育った人は「政治家はみんな信用できない」と思うかもしれない。

実際には、どんな職業でも、いいところもあれば悪いところもあるし、いい人もいれば悪い人もいる。
言葉にすると当たり前の話で、「そんなのわかってるよ」と思うのだが、意外と人は自分のヒューリスティクスに無自覚であったりする。


さらに、情報の恣意性というものにも留意する必要がある。
この世のありとあらゆる情報には、何らかの恣意が含まれている。
二次情報は言うに及ばず、自らの五感を使って得た一次情報ですら、どこを見てどこを見なかったかなど、主観という恣意が存在している。

つまり、すべての情報は色がついているという認識が必要だ。

某新聞社のようにわかりやすく色がついている場合はいいが、やっかいなのは、一見すると気づかないような薄い色がついていて、自分では客観的に判断しているつもりでも、しらずしらず特定の方向に誘導されている場合だ。

検察庁法改正案について、「今この時期にやることなのか」とか「自分たちの都合の良い人事をするためではないか」とか「検察に対する圧力だ」とか、さかんに批判されている。
政府の圧力とか陰謀とか、そういう単純な話に持っていきたい気持ちもわからなくはないのだが、それならばなぜ、逆に、「この法案を批判させて廃案にさせようという検察の圧力、陰謀なのでは」という方向にはいかないのだろうか。
政権の陰謀である可能性を考えて、逆に検察やメディアの陰謀である可能性を考えないのはなぜかというと、「政権与党はだいたい悪いことをしている」「検察はそれを追求する正義の味方」というヒューリスティックな判断が無意識にされているからであり、また、小さいころからマスメディアを見て育ってきたというヒューリスティクスでもある。そして、そういう人は自らのヒューリスティクスに無自覚なため、それが修正されることがないのだ。

「後医は名医」という格言がある。
治療において、患者さんを最初に診た医師よりも、後から診た医師の方が、前医の経過を踏まえてより正確な診断や治療ができるため、名医に見えるのは当たり前だ、という意味だ。
なので、病院や主治医が変わると病気がよくなる、というのは、実はよくあることなのだが、患者さんは往々にして前の医者の悪口を言いたがる。
その気持ちは全く自然なものなのだが、ここで、その言葉にのっかって前医の悪口を言う医者は、確実に碌な医者ではない。
理由は、前述の「後医は名医」であるからそんなことは当然だと思わなければいけないことと、もうひとつは、前医の悪口を言うことは結果的に患者さんの医療不信を強めるため、その患者さんにとってもデメリットだからだ。

他者を貶め、「自分は違う」と伝える。そのやり方は、人の信頼を得るためのとても簡単な方法だ。
だからこそ、この方法を使う人間を、簡単に信用してはいけない。


現代はその気になればほとんどの情報を得ることができる。
マスメディアからの一方通行の情報しか得られなかった時代に比べれば、それ自体はとてもよいことだと思う。
しかし、多方向から情報を得られるようになったかわりに、フェイクニュースが、そうとわからない形で混ざることもある。
玉石混交の情報をいかに取捨選択するかが必要だ。

多方面からの情報を、その正確性を判断しながら取捨選択し、それを自分の判断の材料とするという、情報リテラシーをいかに獲得していくかが重要であると言える。

情報リテラシーを身につけるうえで、何が大切なのだろうか。


まず、最も大切なのは、その情報の正確性を判断すること、つまり、情報の源(ソース)を探し、その信頼性を評価することだ。

情報を丹念に調べていくと、その情報のもとになっている客観的な事実や数字というものに行きつく。それがその情報のソースというになるが、そのソース自体が信頼に足るものであるのかどうか、その判断も重要となる。

例えば、よく見る政党の支持率というものは、調査している新聞社によってだいぶ数字に差があったりする。つまり、調査の方法や母集団の選択によって、ある程度の操作が可能な数字なのだ。そういうものは信頼性の高い情報源とは言えない。

医学研究において、エビデンスレベルという言葉がある。その研究が、どれくらい客観的に見て信頼性が高いか、という評価だ。
「専門家の意見」や「症例報告」は信頼性が低い研究であり、実薬と偽薬を患者さんも医者もわからない形で無作為に割り付けて比較したランダム化比較試験(RCT)がもっとも信頼性が高い研究とされる。複数のRCTを統合・集約したものがシステマティックレビューやメタアナリシスと呼ばれる二次研究であり、それに基づいて治療ガイドラインが作成される。
新しい薬の承認や、治療のガイドラインといったものには、このように信頼性の高い研究が必要とされているのだ。

実際の情報にRCTのような客観性を求めることは難しいが、発信元を調べたり、反対の意見を調べたりすることで、少しずつ信頼性を評価していくことが求められる。

また検察庁法の話をすると、その法案に賛成、反対の立場をとることについては個人の自由だし、意見を表明することには何の問題もないと思うのだが、その意思決定のプロセスにおいて、ツイッターで意見を表明した芸能人の複数に気になる意見があった。

それは、「自分の信頼している人たちがそう言っていたから、自分も反対」というものだ。

言うまでもないが、「信頼している人が言っている」ということは、全くエビデンスにはならない。
仮に、その人が政治や法律の専門家であったとしても、だ。
前述の医学研究におけるエビデンスレベルでは、「専門家の意見」というものは最もエビデンスレベルが低いとされている。
いくら専門家であったとしても、その意見を鵜呑みにすることはとても危険なのだ。

自分の信頼している人の意見を聞くことは必要だし、それを自分の意見としたい気持ちもわかる。
しかし、いくら信頼しているからと言って、その人が言っていることが全て正しいと思っているとしたら、それは信頼というより洗脳だ。

好きな人には自分と同じ意見でいてほしいし、嫌いな人の意見は聞きたくないというのは、前エントリーのバランス理論というものだ。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」になってはいけない。

堀江貴文さんが、5月17日のツイートで、とてもいいことを言っていた。

堀江さんが本当に都知事選に出馬するのか、するとしたらその意図は何なのか、個人的に興味深いが、彼はおそらく不特定多数の人に好かれようとしていないから歯に衣着せぬ発言をして批判されているけど、主張している内容自体は、だいたい論理的で、納得できる内容が多い。

でも、一方で、彼が見ず知らずの他人を「頭が悪い」とけなすのはいかがなものかと思うし、大麻合法化に関しても自分は否定的な意見だ。

つまり、堀江さんの言う通り、彼の意見に関しても、100%正しいことも、100%間違っていることもないんだから、各自が是々非々に判断すればよいことなのだ。

好きな人や尊敬している人も間違ったことを言うことがあるし、大嫌いな人が正しいことを言うこともある。その当たり前のことを受け入れる必要がある。


また、自分の判断や推論を常に疑い、必要に応じて壊し、再構築することも、情報リテラシーを磨くうえで必要なことだ。

最初の方でも書いたが、すべてが客観的で正確な事実に基づいて判断できるわけではないし、情報も何らかの色がついているのだから、不明な部分は無意識にヒューリスティックに推測して補完している。その、推測し補完している部分を自分で把握しておき、新たな情報が入ってきた時点で、作り直さないといけない。

自分に自信のある人ほど、自らの判断を疑い、必要に応じて修正することができる。自信のない人ほど、否定されることに弱く、かたくなに自分の考えを変えようとせずに、SNSで自分と同じ意見を探そうとする。SNSはこうしてエコーチェンバー化がエスカレートしていくのだ。
「自分は絶対にだまされない」と思っている人ほど簡単に、しかも何度でも同じ手口でだまされる。「だまされているのかも」と常に自分を疑える人は簡単にはだまされない。頑ななものほど脆く、しなやかで柔軟なものほど強いのだ。

人間は必ず間違う。間違えない人間などいない。勇気をもって、自分は間違っているかもしれないと疑い、必要があれば考えを修正する。以前のエントリーでも何度も書いている、自分を客観的に洞察するという「メタ認知」が大切である。


また、わからないことを無理に推論したり、結論付けたりする必要はない。

わからないことを認め、わからないまま保留することも大切だ。

わからないことは恥ではない。わからないのにわかったふりをしたり、それを認めなかったりする方が恥ずかしいことであるはずだ。そして、わからないことを責めたり、バカにしたりする人間の言うことなど聞く必要はない。



このnoteのほとんどは、考えていることを整理したり、あとで読み返して確認したりするために書いている。

ぼくは情報リテラシーの専門家ではないので、自分なりに考えた結論であり、ピントがずれていたり、もっと大切なものを見落としていたりするかもしれないけど、ここ数週間、もやもやしていた気持ちを整理するために書き始めた。

途中で、ほとんど完成したものが全部消えてしまったアクシデントもあったが、書くことで自分なりに結論付けられ、気持ちも整理できた。

今回はちょっと間隔があいてしまったが、また細々と書いていこう。

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