Don't feel, think!

この世で起こっている現象にはすべて理由(法則)がある。
雨が降るのも、風が吹くのも、高いところから物が落ちるのも、
地震や台風、津波といった天災も、すべて、
なんらかの法則にしたがって起こっている現象であるはずだ。

生物の行動も、本能という原則にしたがって規定されている。
いわゆる下等動物になればなるほど、意志が介在する余地が少ないから、
パターン化された行動をとる。
遺伝子で規定された生物の行動パターンは、おそらく、最重要なのが
遺伝子の保存(つまり子孫を残すこと)で、次点が個体の生存。

ところが、知能が高くなるにつれ、個体の意志によるバイアスが強まる。
遺伝子の保存よりも個体の生存を優先する行動をとる個体が出てくるし、
違法薬物など、個体の生存を優先するよりも即時的な快楽を優先する個体も出てくる。

自死は遺伝子の規定する原則から逸脱する最もわかりやすい例だが、
個体の生存は二番目の原則だから、遺伝子を残さないという選択を個体が
積極的に選択することも、本能に規定される生物の行動としては
同じくらい不自然であると言える。
太古の昔から乗り物をかえながら生き続けてきた遺伝子にとっては、言うことをきかない人間という乗り物に頭を痛めているかもしれないが、個人的には、意志がある以上、個体の優先する目的のために自己の生命を使うことは間違っていないと思う。

つまり、知能が高くなればなるほど、思考の個体差が大きくなるから、
行動が読めなくなる。
なぜそのような行動をしたのか、すべて話してもらえれば理解できるのかも
しれないけど、そんな機会は少ないし、話してもらっても理解できないこともあるし、行動した本人自身も、なぜなのかわかっていないこともある。

この世のほとんどのことには理由があり、理由があれば理解もできるが、
人間の思考だけは理解できない。

ここが、社会で生きていく上で難しい点であり、面白い点である。


ただ、ここからが本題なのだが、この世でたったひとりだけ、思考のすべてをじっくり観察できる対象が存在する。

それは、いうまでもなく、自分自身だ。

自分だけは、なぜそう考えたのか、なぜそう感じたのか、頭の中に
100%答えが入っていて、それを検索することができる。
直後には感情が邪魔をしてわからない場合もあるけど、あとで振り返れば、
自分の感情や思考、行動には、必ず理由がある。
物理学の法則のように数式では表せないし、本能のように単純化はされていないし、全く同じ状況は二度とないから必ずしも再現性はないかもしれないけど、自分の思考や行動における法則は必ず存在する。

この、「自分の思考や行動を規定する法則」を探すこと、これこそが、
自分がどのように生きればいいのか、なにが自分の幸せなのか、そういった
人生における最も重要なことを理解する上で、いちばん大切なことであると思う。

「自分はなぜこのひとが好きなのか」
「なぜこのひとを信用しているのか」
「なぜこの行動をしているのか」
「なぜ毎日つらいのにこの仕事を続けているのか」…

当たり前すぎて考えたことのなかったことにも、頭の中を探せば、きっと理由がある。
逆に、どうしても理由が見つからなかった場合には、それはただの感覚であったり、知らずしらず刷り込まれていた「常識」と呼ばれるものに縛られているだけだったりするかもしれない。
そうしたら、それを疑ってみる、やめてみるという選択肢も見えてくる。
続ける理由がないならやめたらいいし、信じる明確な理由がないなら疑ってみたらいい。


このように、自己を客観視して思考パターンや行動を認識することをメタ認知といい、自分の性格の特徴を知り、それを修正していく上で最も重要なものである。
これが無意識にでもできている人は成長のスピードが早いし、逆に自己を客観視できない人は感情や行動が感覚だけに規定されているから、何度も同じ過ちを繰り返してしまう。

血液クレンジングが話題になっていたけど、この手のインチキ医療は昔からたくさんある。
藁にもすがる思いでいる患者さんに冷静に判断しろというのは酷な話だが、
なにを信じるかの判断基準が感覚に規定されているひとは、「その人がいいひとそうだから」とか「有名人の○○さんもやっていて心配なさそうだから」などの曖昧な基準で、命にかかわるような大事な決定をしてしまう。
そして、その曖昧な基準に基づいて、「(その一見いいひとそうな人が言っているから)抗がん剤は毒だから寿命を縮めるだけだ」と、さらに間違った確信をしてしまう。
でも、そうして築きあげた信念の城は、本人は気づいていないけど砂上の楼閣なのだ。
誠実な医師は耳障りの良いことばかりは言わない。政治家も然り。現実はドラマではない。


あまりにも有名な「Don't think, feel」という台詞は、
「技(技術=意識、思考)にとらわれるな」という文脈で言われたものであり、充分すぎるほど思考(think)がなされた前提での話である。
それなのに、この有名な台詞だけがひとり歩きをして、感覚(feel)だけが
重要視されているように感じる。

自分の考えや感情、行動について「わからない」「嫌だから嫌」など、
感覚に任せて思考停止してはいけない。
考えに考えて、それでも迷うことは、最後は感覚でもいいかもしれない。
でも、最初から感覚に任せてはいけない。

自分を知ろうとすること、そのために考え続けること。
遺伝子の規定に縛られないユニークな存在である人類が、生きる意味(幸せ)を見つけるために、
これがいちばん大切なのではないかと思う。

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