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それでも、人生は美しい

ふと気づくと、庭で遊ぶ息子が、おもちゃの鏡を持ち歩いている。
まだ3歳にならない年齢なので、やめるように言っても聞いてはくれないが、そのうちに飽きて芝生の上に鏡をおいて、こんどはまた別のおもちゃで遊んでいる。

ベンチに腰掛けてその様子をながめながら、きっと彼女も、空の上から、少し困ったような顔で首を傾げて見ているのかな、とぼんやり考えていた。

鏡は彼女のお気に入りのおもちゃだった。カゴの中にいるときにはいつも鏡の前で何かを話していた。
掃除をするのに外しただけですごく怒っていたな。
でも彼女はぼくのことが大好きで、いつもぼくの肩や頭に止まって、遊んでほしいとせがんでいた。
ぼくも、彼女と遊ぶのが大好きだった。

はなちゃん、息子がいたずらしてごめんね。
息子に気づかれないように、鏡をそっと、彼女のお墓のとなりに戻した。


はなが死んでしまった頃、自分自身もとてもしんどい時期であったこともあり、記憶が苦しい感情に紐付けられている。
真っ暗な家で、いつも彼女だけがぼくを待っていてくれたし、はなはぼくのことが大好きだったから、手の上で動かなくなっている彼女を見たとき、おおげさでなく、ぼくは自分をいちばん好きでいてくれる存在を失ったんだ、と感じた。


あれから6年近くが過ぎて、ぼくの周囲の環境は大きく変わった。
あの頃、しんどい想いをしながら守ろうとしていたものは、結局守れずに失ってしまったけど、今は今でとても幸せな毎日だ。

最近は、はなを思い出すときはだいたい、かわいらしい声やダンスとか、いろんな言葉を教えても結局「はなちゃん」しか聞き取れず、鳥語になってしまっていたこととか、かごに戻るのを嫌がっていつも捕まえられてギャーギャー怒っていたこととか、そういう楽しかった思い出になった。
いちばんつらい記憶を思い出すこともあるけれど、それすら、優しい思い出に包まれて、するどい痛みまで伴うことはなくなってきている。
会えないさみしさはもちろんある。でも、こうして、ときどき思い出すことで、またはなに会っているような気持ちになる部分もある。
墓参りで、故人にいろいろ語りかけて、その存在を改めて感じるのと同じような感覚かなと思う。

「マトリックスと方法序説」というエントリーでも書いたが、自分以外の存在は、すべて、自分の感覚を通してインプットされる情報であり、「実在」の証明はできない。
しかし、自分の感覚や考えからなる自分の世界では、自分の感覚が全てだから、ぼくがはなのことを思い出し、はなのことを考えている限り、ぼくの世界には彼女は存在している。
ぼくは、これからもはなとの思い出を思い出していたいし、かわいかった彼女の姿や仕草を、なるべく思い出したい。


BiSHの「Life is beautiful」という曲のMusic Videoは、幼馴染の男女が、成長し、結ばれ、様々な物事を共有しながら生きていくが、最期の瞬間だけ共有できない、という悲しい物語になっている。
ただ、その最期の瞬間に、それまで共有してきた数え切れない物や思い出が映し出され、「それでも、人生は美しい」というテーマが描かれている。

さまざまなとらえ方ができるし、もちろん正解などないんだけれど、ぼくが思うに、最期の瞬間を共有できない残酷な事実はあっても、それでも、今まで共有してきた思い出は確かに自分の世界のなかには存在していて、だから、自分の世界の中では亡くなったその人は確かに存在している、それこそが、人生は美しい、ということなのかな、と思う。

霊的なものは一切信じていない自分だけれど、ぼくはいつでも、彼女の愛らしい姿や、かわいい声を思い出すことができるから、ぼくの世界に、はながまだ存在していることは紛れもない事実だ。
ぼくの世界にいる彼女が消えるときは、ぼくが彼女の存在を忘れてしまったときか、もしくは、ぼくが死ぬときしかない。
なので、ぼくが忘れない限り、ぼくは彼女とまだいっしょにいられるのだ。

生き物には必ず死が訪れるから、大事な存在と死別する、という経験は不可避だ。
ただ、だからといって、それを受け入れることは、いつも、何度経験していても、困難なことだ。

おそらく、感情を整理するために必要なのは時間だけだ。
かといって、「時間が経てば感情を整理できる」ということも、悲しみの渦中にいる人にとって何の助けにもならない。
気休めにもならないだろう。

どう頭をひねっても、心を伝える言葉が思い浮かばない。伝えるべきかどうかもわからない。


何度も遊びに行かせてもらい、ぼくの世界にも存在している、うちの子だった鳥と同じ名前の彼女のご冥福と、友人である彼女の家族にこれ以上悲しいことが起こらないように、それだけを願う。

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