わかりあえやしないってことだけをわかりあうのさ

テレビにもネットにもある、「この人は叩いていい」という雰囲気が嫌いだ。


反社会的勢力のパーティでの闇営業問題で、最初から疑問なことがあるんだけど、芸人が叩かれて、(反社の人間はもちろんだが)このパーティ会場を貸してるホテルはなぜ叩かれないのだろう。
そして、この反社の人たちが普通にお昼ごはんを食べに行って、代金を払ったら、そのお店は「反社から金を受け取った」って叩かれるべきなのだろうか。
パーティに呼ばれて芸人としての仕事をして、その対価としてお金を受け取ったんだから、お昼ごはんを提供してお金をもらった飲食店と同じはずなのに、なぜ芸人たちだけが「叩いてもいい雰囲気」になっているのだろうか。

会社と芸人との間で、会社を通さない営業を禁止する取り決めがあるのであれば、会社が芸人に対して何らかの措置をとることは理にかなっている。
しかし、それはあくまで会社と芸人との間の問題であって、何の関係もない他者が芸人を叩いていい理由にはならない。

「正直に言わずに嘘をついたから」も他人を叩いていい理由ではない。
その嘘によって直接的な被害を被ったのであれば非難する権利があるが、
家族でもない他人が「嘘をついてはいけません」と叩く権利などないはずだ。


不倫の話も同じ。
なんで当事者でもない他人に、そこまで叩かれなければならないのだろう。
「不倫はいけないこと」というのは、個人の価値観と言うよりはもう少し
社会通念に近いものだから、「常識」といっても差し支えないのかもしれないけれど、それでも、触法行為をしているわけではない(正確に言えば、民法上の不法行為にはあたるが、法律には違反していない)。
当然、奥さんや家族は怒る権利があると思うし、友人たちも怒っていいかもしれない。
でも、何のつながりもない他人が、なぜそこまで熱くなるのだろう。
というより、何のつながりもない他人に対して、そこまで熱くなれる理由がわからない。
「奥さんがかわいそう」というのはあくまでその人の価値観であって、かわいそうかどうかは奥さんが決めることだ。勝手に被害者を作って気の毒がるのは失礼だと思う。


こういう人たちって、「自分の価値観に合わない」→「きらい」→「叩いてもいい」という思考回路なのかな、と推測している。
つまり、程度の問題はあれ、「自分の価値観(嘘はよくない、不倫はいけないなど)をみんなが共有すべきだ」と思っているのかな、と思う。


余計なことと思いつつ一応補足しておくと、ぼくも、嘘はよくないと思っているし、不倫もよくないと思っている。
ただ、誰にとって「よくない」かというと、周りからの信用をなくすから「本人にとってよくない」と思っているのであって、本人の中で、それを上回るメリットがあるなら「好きにすれば」と思う。
というか、自分の価値観を押し付けたところで、本人が変わる気がないなら言うだけ無駄だ。

そう、無駄なのだ。

各々が持っている価値観というものは、生きていく中で形作られたもので、誰かに何かを言われたからといって簡単に変わるようなものではない。
本人が変える必要性を心の底から認識して、変えようと努力しない限り、変わることはない。
まして、自分と大して関わりのない他人に価値観を押し付けるなんて無駄の極みだ。無駄だから嫌いなんだ。無駄無駄。


この類の「価値観の押しつけ」という問題が、ネットの普及によってさらに拡大して、息苦しさを強めていると思う。
異質なものを排除しようとする同調圧力が強すぎるので、「得点すること」より「失点しないこと」の方が重要になってしまって、どんどん生きづらくてつまらない世の中になっている。
ポリティカル・コネクトレスに縛られ、どんどん当たり障りのないことしか言えない、できない世の中になっていくのに多くの人が疲れたからこそ、トランプが支持を集めているのだろう。

「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんなバカな過ちはしないのさ」は小沢健二の「ローラースケート・パーク」の歌詞だ。
この曲を含むアルバムが世に出たのは1993年だし、彼が何を意図してこの歌詞を書いたのかはわからないけど、この時代に聞くと、なんとなく今の世相と重ねてしまう(今の彼のツイートを見ると、明言はしないものの反トランプな印象だけど)。


価値観の押しつけは、多様性を尊重することと対極にある行為だ。
以前にも書いたが、多様性を尊重するということは、「わかりあえないからわかりあおう」ではなく、「わかりあえないことを認めあおう」ということだ。

「自分は不倫は良くないことだと思うし、気持ちが全く理解できないけれど、彼らにとってはリスクをおかす価値があるくらい重要なことだったんだろうな」と考えられたら、腹も立たないのではないだろうか。というか、そんなことで腹を立てること自体が時間と労力の無駄だ。

そもそも、他人の頭の中のことなど、考えてもわからないし自分に全く関係のないことなんだから、気にしても仕方がないし、気にする意味がないと思う。
性的マイノリティの人も、ヴィーガンの人も、その人の生きたいように生きればいいだけのことで、他人がとやかくいうようなことではない。

自分以外は全員他人なのだから、全く同じ考え方をしたり、価値観を持っていたりする人間はひとりもいない。
だから、その人の考え方や価値観が理解できなくて当然なのだ。
行動をすり合わせることは可能でも、価値観をすり合わせることは困難だ。
そして、基本的に価値観には善悪はない。批判されるようなものではないはずだ。誰もが、自分の世界を自分の好きなように構築する権利がある。


以前のエントリーでも引用したが、タイトルは、フリッパーズ・ギターの「すべての言葉はさよなら」という曲の歌詞だ。
今のぼくは、また活動し始めた小沢健二とは心の距離が離れてしまっているけれど、10代の頃から、人生の半分以上の期間ずっと好きだった彼の曲や歌詞は、ぼくの価値観に大きな影響を与えている。

「自分には理解できないけれど、それがあなたの価値観なんですね」と、押し付けや批判なしに、みんながお互いに認めあえれば、もう少し自由に言いたいことを言えるような気がするし、生きやすい世の中になるんじゃないかな、と思う。

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